宮の宿(熱田宿)


宮の宿赤本陣跡

名古屋市熱田区

宮の宿は熱田宿とも呼ばれ、勅使や大名、旗本ら
の公用の宿泊施設である本陣が二軒あり、赤本陣
と白本陣と呼んで区別していた。本陣職を承った者
は土地の有力者に限られ、代々世襲で、赤本陣は
南部新五左衛門が務め、苗字帯刀を許されていた。
天保年間(1830〜44)の「東海道宿村大概帳」に
よれば建坪236坪となっており、南部家の記録では、
間口数16間、奥行き21間であったと記されている。
戦災によって本陣の遺構は全くない。

西浜御殿跡


西浜御殿は承応3年(1654)尾張藩二代目藩主徳川
光友が造営したもので、東西36間(約65m)、南北
33間(約59m)に及ぶ豪壮なものであったといわれ、
幕府高官や公家、大名の客館として使用されていた。
正殿は安政年間(1854〜60)成岩(半田市)常楽寺
に移され、残る諸館も明治6年(1873)売却され跡形
もない。門は現在春日井市中央公民館に残されて
いる。ちなみに熱田の浜の浮世絵などに見える城
郭のような建物は東浜御殿の一部で、初代藩主義直
が造営したものである。

丹羽家住宅



丹羽家は幕末のころ、脇本陣格の旅籠屋で、
伊勢久と称し、西国大名の藩入りの堤燈箱
が残されている。正面の破風付玄関は、かっての
格式の高さを残している、屋根の上に上がっていた
卯建は戦災で破壊され、現在は袖卯建のみであ
る。創建は不明であるが、天保12年(1841)の
「尾張名所図会・七里渡船着」には当家のものと思わ
れる破風付玄関のある旅籠屋が描かれている。
昭和59年、市の有形文化財に指定された。

熱田荘


木造・二階建・切妻造・桟瓦葺平入り・正面庇付で、
この建物は明治29年(1896)武藤兼次郎が建てた
「魚半」という料亭であった。太平洋戦争中は三菱重
工業の社員寮として、現在は高齢者福祉施設とし
て利用されている。建造時期は新しいが、近世の町
屋の形式を継承しており、旧船着場に面して建ち、
先に指定された丹羽家(伊勢久)とともに、宮の宿の
景観をしのばせる数少ない遺構の一つで、市の
有形文化財に指定されている。



七里の渡し舟着場跡
江戸時代、東海道の宿駅があった熱田は
「宮」とも呼ばれ、桑名までの海路「
七里の渡し」の舟着場としても栄えていた。
寛永2年(1625)に建てられた常夜灯は航行
する舟の貴重な目標であったが、現在は
復元されて往時の名残りをとどめている。
安藤広重による「東海道五十三次」の中
にも、宮の宿舟着場風景が描かれており、
当時の舟の発着の様子を知ることができる。

宮の宿とシーボルト


ここ宮(熱田)の宿・神戸の浜から桑名宿まで
東海道では唯一の海上七里の海路で、東西の
人々の行き交いが盛んであった。名古屋の本草学
者水谷豊文、その門下生伊藤圭介、大河内存真らは、
ドイツ人医師シーボルトが、文政9年(1826)2月オラン
ダ使節に随行して江戸へ参府する際と、4月長崎への
帰路、宮の宿で会見し、教えを受けた。彼らは、名古
屋の医学・植物学の研究に多大な貢献をした。

時の鐘
延宝4年(1676)尾張藩主光友の命により熱田
蔵福寺に時の鐘が設置された。正確な時刻を知
られるこの鐘は熱田に住む人々や東海道を旅
する人々にとって重要な役割を果たしてきた。
昭和20年の戦災で、鐘楼は焼失したが、鐘は
損傷も受けずに今も蔵福寺に残っている。熱田
の古い文化を尊ぶ市民の声が高まり、往時の
宮の宿を思い起こすよすがとして、
この公園に建設したものである。

熱田湊常夜灯


この地は宮(熱田)の神戸の浜から桑名までの海上
七里の航路の船着場跡である。常夜灯は寛永2年
(1625)藩の家老である犬山城主成瀬正房(正虎)が、
父正成の遺命を受けて須賀浦太子堂(聖徳寺)の
隣地に建立した。その後風害で破損したため、承応
3年(1654)に現在位置に移り、神戸町の宝勝院に
管理がゆだねられた。寛政3年(1791)付近の民家の
出火で焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、
その後荒廃していたものを昭和30年復元した。



七里の渡船着
(尾張名所図会)



この絵は七里の渡しを描いたもので道沿いに並ぶ
旅籠屋などの家々や、岸につながれた船、道を行き
かう人の多さから当時のにぎわいがわかります。
この渡し場は城下町名古屋の玄関口としても、
人と物資の輸送の面で重要な役割を果し、そのた
め尾張藩は東・西浜御殿のほか、浜鳥居の
西に船番所、船会所などの役所を設け、船の
出入りや旅人の姓名などを記録していました。

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