明智光秀と妻
「細川家記」には光秀の妻は妻木範熈の娘であると記すが、はっきりしていない点
がありますが、逸話にはこと欠かせません。
崇禅寺(妻木氏菩提寺)
妻木城の城門が移築されている。
岐阜県土岐市妻木町
瓦などにも桔梗紋が見られる。
大阪市東淀川区にある崇禅寺には、ガラシャの墓がある。
ここにも桔梗もゆかりを感じる。
光秀と妻木範熈の長女熈子との婚礼も間近い頃、熈子が天然痘に感染、せっかく
の容貌が痘痕面と化します。そこで範熈が熈子と瓜二つの妹娘を替え玉にしました
が、光秀に見破られた上、「容貌など歳月や病気でどうにでも変わるもの、ただ変わ
らぬものは心の美しさよ。」と訓戒されて送り帰される。そして、約束通り熈子が妻に
迎えられたというのです。
芭蕉句碑
「月さびよ 明智が妻の 咄せん」
滋賀県大津市坂本5(西教寺内)
また、諸国を流浪する貧乏時代の光秀夫妻が、一時期ある武士たちの仲間に加わ
りました。その頃の戦国武士たちは汁事と称し、持ち回りで仲間を家に招き、汁物を
食す習わしがありました。もちろんそれだけでは済まず、酒や肴も出すことになります。
回り番の日が近づき、光秀は途方に暮れます。ところが、当日熈子が用意した酒肴
は仲間の家のどの会食よりも見事なものだったのです。解散後、一体どう工面したの
かと尋ねる光秀に熈子は頭髪に巻いていたものを取ってみせます。すると、昨日まで
の丈なす黒髪は断髪に変わっていたのです。
その後も熈子の黒髪は、病気になった光秀の薬代とか生活費を稼ぐのに役立ちま
す。光秀はその恩を終生忘れず五十万石の大身になろうと他の女性を顧みなかった
というのです。
さらに、光秀敗北を知った近江・坂本城では光秀の娘婿明智秀満を中心に篭城か
出撃か、城を放棄し再起を図るか、小田原評定が繰り返されていました。ときに長々
と続く軍議に熈子が終止符をうちます。
「当家の時運ももはやこれまで、空しく時を費やしては、各々方の落ちのびる機会も、
ついに失われましょう。我ら一族が、この城で果てることは、かねて覚悟のこと。各々
方、早々にご決意下されよ。」
きっぱりと言い切ると熙子は家臣たちに金銀を与え城から脱け出させた後、秀満の
刀で最期を遂げます。享年四十八とも五十三ともいいます。墓は西教寺(滋賀県大津
市坂本本町)の明智一族の墓所にあります。
熈子の墓
滋賀県大津市坂本5(西教寺内)
なお、1576年、妻熈子は光秀の看病中、夫の病を貰い、1576年11月7日、急死すると
記載してある文献もあります。
妻木氏(妻木家頼)は、関ヶ原合戦で東軍につき、戦後交替与力格の旗本となり、東濃に
君臨する。三代目頼次の時に後継なく断絶した。
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