明智光秀と濃姫
濃姫という名は美濃の姫を略したものという説があり、「美濃諸旧記」には、帰蝶とありま
す。
愛知県清須市清洲町清洲公園・濃姫像
斉藤道三と小見の方の間に生まれた、娘濃姫が一歳年上の信長に嫁いだ時、
道三の近習に十兵衛という少年がいました。小見の方は美濃国可児郡の明智城主明
智光継の娘で、十兵衛の父光綱と兄妹の間柄であります。従って、十兵衛は小見の方の
甥に当たり濃姫とは従兄妹になります。
やがて十兵衛は光秀を名乗ります。 濃姫の生年が天文四年(1535)であり、一応通説
になっている光秀の没年五十五歳説から逆算すると二人は七歳違いとなります。
本能寺の変の時、四十八歳の濃姫が信長を裏切って光秀に味方したというが、これは「明
智軍記」からの逸話であります。幼なじみの光秀と濃姫は人知れず将来を誓い合ったが、父
道三が嫌がる濃姫を政略の具として信長に嫁がせた。以来、光秀の信長への憎悪、その後
の杳として行方知れぬ濃姫の生涯を暗示している・・・・。光秀反逆説にはそんな想像すら浮
かびそうなイメージがあります。
春日局の父・斉藤利三の母は光秀の妹だったともいわれ、さらに、斉藤利三の先妻は、斉藤
道三の娘といわれている。道三の娘であれば、織田信長の妻・濃姫と姉妹ということになる。
その後、利三は、春日局の母・あんと再婚する。
このようにみていくと、織田信長と明智光秀は複雑な関係であったのかもしれませんね。
濃姫の墓
岐阜市不動町
お濃の墓の由来
この墓は天正10年6月1日京都本能寺の変の折、
夫君織田信長公と共に討死にされたお濃の方の墓で
討死された時家臣(氏名不詳)の一人がお濃の方の
遺髪を持ってこの地まで逃れて来て埋葬したものと
伝えられて居ります。
昭和20年7月B29の空襲により岐阜市の大半が灰燼
となり墓石も焼失しました処、昭和50年にお濃の墓の
碑文がみつかり、氏子有志皆様の御協力を得て再建
いたしましたお墓であります。
西野不動堂守記
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