明智光秀と母


光秀の丹波攻略は、丹波国最大の土豪波多野秀治ら三兄弟の頑強な抵抗に遭い、難戦
をきわめていました。そこで、光秀は波多野氏の拠る八上城(兵庫県多紀郡篠山町)を重
包囲、兵糧攻めにした上で、和議を申し入れました。
「織田信長の丹波平定は、決して、私欲や遺恨ではない。偏に天下統一のためであるゆ
え、信長に恭順するなら、波多野氏の領地も地位も保証しょう。その証に、わが母を人質に
差し出すにやぶさかでない。」
 天正七年(1579)八月、光秀の母が八上城に送られるのと入れ替わりに、光秀にともな
われた波多野兄弟は、和議成立の挨拶のため安土城に赴きました。ところが、信長は滋恩
寺町で三兄弟を磔に処してしまったのです。
 城に居残る波多野の家臣たちは激昂、人質になっている光秀の母を楼上で磔にし、報復
します。このため信長に深い怨恨を抱いた光秀は、三年後に本能寺の変を惹起した。以上
が「総見記」の記載であります。光秀が信長を襲撃した動機のひとつであるともされていま
す。(怨恨説)。

                  お牧の方の墓所
         
                  恵那郡明智町

         明智光秀公の母、お牧の方の墓所として祀られ、
         寛保3年に建てられた石塔の傍らには樹齢数百年
         の高野槇の巨樹がある。



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