美濃路


                              美濃路の由来
                       
                                稲沢市北市場町

                       美濃路は、天正年間(今から約400年前)織田信雄
                       が幅五間(9m)の道路に改修させたのが始まりで、
                       東海道と中山道を結ぶ重要な脇街道であった。
                       宮の宿(熱田)で東海道と分かれて、名古屋・清須
                       (清洲町)を経て北市場地内を通り、稲葉・起・墨俣・
                       大垣の各宿を経由して垂井宿で中山道と合流する。
                       その里程は14里24町15間(57.6km)といわれた。
                       この道は、慶長5年(1600)の関ヶ原の役にも重要な
                       役割を果たした。即ち東軍の先鋒として福島正則が
                       この道を西に進み、さらに勝利をおさめた徳川家康が
                       この道を通って凱旋した。家康凱旋路・天下一統に
                       因み、江戸時代にはこの道を吉例街道と呼び、江戸・
                       京都間の往来に盛んに利用された。

                       熱田宿

                       
                               名古屋市熱田区伝馬

                                     道標
                       

                       ここ熱田伝馬町の西端は、江戸時代東海道と美濃路
                      (又は佐屋路)の分岐点で重要な地点であった。

                       佐屋路の道標
                       
                             名古屋市熱田区新尾頭1
                           伏見通・金山新橋の交差点角にある。

                       古渡一里塚
                     
                                名古屋市中区

                       伝馬町通
                       
                               名古屋市中区錦2

                       名古屋宿
                                四間道

                       
                               名古屋市西区那古野1

                         名古屋市四間道町並み保存地区

                       名古屋城の築城は慶長15年(1610)に始まり、城下
                       町の建設も同時に進められました。
                       尾張の政治の中心地も清洲から名古屋へ町ぐるみ
                       移転しました。これがいわゆる「清洲越」といわれる
                       ものです。
                       この地区は清洲商人の町として生まれ、堀川沿いに
                       は、水運を利用して米穀、塩味噌、酒、薪炭なだを城
                       下まちに供給する商家が軒を連ね繁栄しました。
                       四間道は、元禄13年(1700)の大火の後防火の目的
                       や商業活動のため道幅を4間(約7m)に広げたことに
                       より、その名がついたともいわれています。
                       四間道をはさんで、東側には石垣の上に連続する土
                       蔵、西側には町家が建ち並ぶこの独特な景観は、元
                       文年間(1740頃)に形成されました。堀川から荷を揚
                       げた石畳や屋根神様そして子守地蔵尊など、下町情
                       緒が今も都心に残る貴重な地域です。
                       名古屋市は、この地区を昭和61年6月10日「街並み
                       保存地区」に指定し、歴史的な街並みを守るために
                       必要な建物、保存すべきものを定め、修理、修景工事
                       に対する補助事業などを進めています。

                       
                                名古屋市西区城西1

                       江川一里塚
                       
                                 名古屋市西区城西

                             樽屋町の大木戸跡
                       

                              樽屋町の大木戸跡
                       城下町には、治安のために辻毎に木戸が設けられ
                       ていた。なかでも重要な街道には「大木戸」を設け、
                       夜間は閉鎖し、城下防御の役割を持たせていた。
                       名古屋城下には三ヶ所の大木戸があった。
                       南口は東海道から美濃路を通り、城下への入口橘
                       町(中区)、東口は飯田街道の入口、赤塚(東区)。
                       西口はここ美濃路樽屋町と押切村の境(西区)に設
                       けられていた。大木戸は城下と外との境界で、番小
                       屋が付設されていた。旅行者の送迎もこの大木戸
                       までであったという。
                       1872年、三ヶ所の大木戸はすべて取り除かれた。

                             白山神社
                       
                               名古屋市中区押切

                              尾州殿茶屋跡
                       

                                  尾州殿茶屋
                       かって、この場所に尾州殿茶屋があり、尾張藩と
                       関係のある要人が通る際の接待所であった。
                       名古屋には宿場としての本陣や旅篭はなく、熱田と
                       清州の中程に疲れを癒すための施設を設けたという。

                                   枇杷島橋
                       
                                名古屋市西区枇杷島

                       枇杷島橋は、美濃路と庄内川の交差するこのあたり
                       に架けられたが、その年は慶長13年(1608)とするも
                       のと元和8年(1622)とするものの二説がある。
                       この橋について、「尾張名所図会」は、「国中第一の
                       大橋にして、東西に二橋を架せり。大橋長さ72間、
                       小橋27間、杭・桁・梁・高欄其他に至るまで、更に
                       他の雑木を交へず、みな檜材を用ひて、結構の善美、
                       人の目を驚せり。又両橋の間に中島とて南北六町
                       ばかり川へ墾出ず。」と記している。


                       西枇杷島

                                 美濃路道標
                       
                                清須市新川町

                                  瑞正寺の宝塔
                       
                                 清須市土器野

                       須ヶ口一里塚
                       
                                 清須市新川町

                     清洲宿

                                美濃路清洲本陣跡
                       
                                  清須市清洲町


                               北市場美濃路公園
                       
                               愛知県稲沢市北市場町

                                   長光寺
                       
                                稲沢市六角堂東町

                       四ツ家追分の石碑

                                国府宮一ノ鳥居
                       
                                  稲沢市正明寺

                              稲葉一里塚跡
                       

                       稲葉宿

                                稲葉宿本陣跡の碑
                       
                                  稲沢市小沢

                                   禅源寺
                       
                                  稲沢市稲葉

                       高木の一里塚
                       
                              一宮市萩原町高木

                       萩原宿
                             萩原宿問屋場跡
                       
                              一宮市萩原町萩原

                       冨田一里塚
                       
                                  一宮市冨田

                                 駒塚道道標
                       

                       美濃駒塚の殿様といわれた尾張藩の家老石河佐渡
                       守が名古屋へ参勤するために開いたのが駒街道であ
                       る。冨田の立石で美濃路と分岐している。冨田・駒塚
                       間の木曽川には享保15年(1730)に渡船が運行した。

                       起宿
                                  脇本陣跡
                       
                                   一宮市起

                                 起渡船場石灯台
                       
                              岐阜県羽島市・濃尾大橋の堤防

                       墨俣宿
                     
                                  
岐阜県

                     大垣宿

                       
                                    大垣市

                                 久徳の一里塚
                       

                                 垂井の松並木
                       

                       

                                中山道との追分道標
                       

                              垂井追分道標について
                      徳川幕府は成立直後、日本の五街道を造り、中山道と
                      東海道を結ぶ街道として美濃路を造った。その大切な
                      街道の追分に宝永6年(1709)この道標が建てられた。
                      木曽路(中山道)は東海道と並ぶ重要な幹線道路であり、
                      大名や姫宮・日光例幣使・谷汲・善光寺参り等の通行
                      があった。
                      また美濃路は将軍上洛の道であり、朝鮮通信使及び
                      琉球使節、大垣湊への重要な道でもあった。


                       垂井宿
                                 旅篭亀丸屋
                       

                                                        


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