美濃を制するものは天下を制す


                       「美濃を制するものは天下を制す」といわれるが、
                       今でいう岐阜県を制するものが天下を制すということ
                       なのだが。

                       現在の感覚で美濃を捕らえてはいけない。
                       美濃は東西交通の要所だったのだ。美濃にはこのよ
                       うなものがある。

                                   不破関
                       
                               岐阜県不破郡関ヶ原町

                                   不破関跡
                       東山道の美濃不破関は、東海道の伊勢鈴鹿関、
                       北陸道の越前愛発関とともに、古代律令制下の
                       三関の一つとして、壬申の乱(672)後に設けられた
                       とされています。
                       延暦8年(789)に停廃されて後は関守が置かれ、
                       平安時代以降は、多くの文学作品や紀行文に関跡
                       の情景がしきりに記されてきました。

                              美濃国分寺跡
                       
                                  大垣市青野町

                       

                       美濃国分寺は、美濃国府(垂井町府中)や不破関
                       (関ヶ原町松尾)に近い、青野ヶ原の景勝の地に建
                       立された。背後に山がひかえ、南は東山道に面して
                       建立された。
                       国分寺は、わずかに塔跡を残すのみで埋もれてい
                       たが、昭和43年からの継続的な発掘調査によって
                       伽藍の全容が次第に明らかとなった。伽藍地は
                       東西230m、南北250m以上を占め、伽藍の配置は、
                       塔を回廊内に建てる古式の様式をもち、建物基壇は
                       せん積みという特異な形であった。
                       創建期の国分寺は、仁和3年(887)の火災によって、
                       伽藍の全てが焼失し、一時席田郡(現 本巣市旧糸
                       貫町管内(推定))に定額尼寺にその機能を移したが、
                       その後この地に再建されたものと考えられる。以後、
                       幾度となく堂宇の修理がおこなわれたようである。
                       なお、国分尼寺跡は、国分僧寺であった、ここみ美
                       濃国分寺跡の西方約700mの垂井町平尾にある。

                       
                                岐阜県大垣市青野町


                                 昼飯大塚古墳
                      
                                 大垣市昼飯町

                            昼飯大塚古墳(国指定史跡)
                      昼飯大塚古墳は4世紀後半に築造された前方後円
                      墳で、全長150m、後円部の直径約96m、高さ約13m、
                      前方部の幅約82m、高さ約9.5mと、当時としては東海
                      地方最大級の規模を持つ。
                      昼飯大塚古墳は不破地域を拠点に畿内の勢力と強
                      く結びついた、当時の東海地方を代表する首長の墓
                      であると考えられる。

                      


                                安楽寺
                      
                                大垣市赤坂町

                                   安楽寺
                      岡山の山腹にある西美濃三十三霊場二十一番
                      礼所、紫雲山安楽寺は、593年(推古天皇元年)、
                      聖徳太子の創建、壬申の乱で大海人皇子が勝利
                      祈願を住職に命じ、戦勝後天武天皇が大友皇子の
                      冥福を祈り宝物を寄進されたという古刹です。


                                    円興寺
                      
                                  大垣市青墓町
                      延暦9年3月最澄(伝教大師)が大谷の里(青墓)の
                      大炊氏の帰依を得て、山頂に寺を創建し、聖観音立
                      像を本尊として円興寺と号した。その当時の七堂伽
                      藍の金堂は七間四面の壮厳なもので、その他坊舎、
                      末寺等百余ヵ寺。寺領五千領と伝えられる。
                      天正2年(1574)織田信長に焼かれ、田之堂をへて、
                      万治元年(1658)この地に移したてられた。


                                 源朝長の墓
                      
                                  大垣市青墓町
                      左から、源朝長・義平・義朝。

                                    刀石
                      
                      この石は源朝長公の墓にお参りする際の礼儀として
                      帯刀を一時預けておくためのもので、刀石と呼ばれ
                      ている。

                           青墓のよしたけあん
                      
                                 大垣市青墓町

                               青墓のよしたけあん
                      牛若丸(後の義経)が、京都の鞍馬山で修行を終え、
                      金売吉次をお供にし、奥州(今の東北地方)へ落ちの
                      びる時、円願寺(円興寺の末寺)で休み、なくなった父
                      や兄の霊を供養し、源氏が再び栄えるように祈りまし
                      た。その時、江州(今の滋賀県)から杖にしてきたあし
                      の杖を地面につきさし「さしおくも形見となれや後の世
                      に源氏えばよし竹となれ」の歌を読み東国へ出発しま
                      した。その願いが仏様に通じたのか、その後、杖にし
                      てきたよしが、大地から芽をふき根をはりました。
                      そして、みごとな枝に竹の葉が茂りました。が、しかし、
                      根や幹はもとのままのよしでした。この珍しい竹は、
                      その後もぐんぐんと成長し続けました。そこでこの珍し
                      い竹を「よし竹」と呼び、この寺をよしたけあんと呼ぶよ
                      うになりました。
                                            (青墓伝説より)

                                  御首神社
                      

                                   御首神社
                      今から約千年前、平将門は時の朝廷の政策に憤り
                      を覚え乱(天慶の乱)を起した。しかし藤原秀郷・平
                      貞盛等に鎮められ、将門ほ捕えられ首を討たれた。
                      その首は京都に送られさらし首となったが、故郷恋し
                      さのあまり獄門を抜け出し関東へ戻ろうと飛出した。
                      この異変を知り、美濃の国南宮神社では、将門の首
                      が関東に戻ることにより再び乱の起こることを恐れ祈
                      願したところ、神社に座す隼人神が矢をつがへ東に
                      飛びゆく将門の首を射落とした。
                      その時、隼人神の射た神矢が飛んでいった道筋を矢
                      の通った道であるとして、現在の大垣市矢道町がある。
                      この首が落ちた荒尾の地に将門公を神として崇め祀
                      ることによって再びその首が、関東に戻らぬようにそ
                      の怒りを鎮め霊を慰めるために創建されたのが、御首
                      神社であると伝えられています。
                                           御首神社HPより

                      
                                 大垣市荒尾町


                                岩村城
                      
                              岐阜県恵那市岩村町

                      岩村城は別名を霧ヶ城といい、天然の峻険な
                      地形を活用した要害堅固な山城で、海抜721m
                      に位置し、全国の山城の中で最も高地にあり、
                      日本三代山城の一つである。(日本三代山城は、
                      美濃の岩村城、大和の高取城、備中の松山城。)
                      岩村城の創建は源頼朝の重臣加藤景廉が文治
                      元年(1185・一説に建久6年)に遠山庄地頭になった
                      のにはじまり、景廉の長男景朝が岩村に住んで
                      遠山と改姓し、以来遠山氏時代が388年続きました。
                      戦国時代になって武田信玄の武将秋山信友が
                      天正元年(1573)に岩村城を奪取しましたが、
                      翌々年、織田信長の軍の猛攻によって落城し、
                      川尻秀隆、森蘭丸、森長可、森忠政、田丸直昌と
                      28年に城主の交替が激しく悲話も多い。
                      徳川時代になって松平二代、丹羽五代、松平七代
                      が岩村藩を治め明治維新となった。

                              美濃和紙の里会館
                      
                             美濃市蕨生1851-3

                      美濃の紙は、正倉院に残る大宝2年(702)の御野国
                      戸籍断簡が現存最古のものであり、その製紙は国府
                      の置かれた揖斐川流域で始まったと言われている。
                      御野の紙の品質は良いと言われ、当時からすでに
                      美濃にはすぐれた製紙技術が存在していたと考えら
                      れる。

                                  紙屋塚
                              岐阜県不破郡垂井町
                      国府に近い垂井では官設抄紙場(すきかみば)とも
                      いえる紙屋があった。美濃紙の発祥の地といわれ、
                      垂井の泉の清水を利用して、紙を漉いたと思われる。


                               関鍛冶伝承館
                      
                                関市南春日町

                      鎌倉時代に、九州から元重という刀匠が美濃に来た
                      折、関の向山に良質な焼刃土があるのを発見。
                      更にこの付近には、栗、松炭が容易に得られるなど、
                      刀剣鍛冶に恵まれた条件を備えている事が分かる。
                      そこで元重は、この地に移住し刀剣鍛冶を始めた。
                      これが関鍛冶の起源である。


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