水口岡山城
甲賀市水口町
水口市街北側に、椀を伏せたような姿を見せる大岡
山(古城山、標高282m)に築かれた豊臣期城郭の跡。
天正13年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉が、甲賀郡と
蒲生郡の一部を支配させるため、家臣の中村一氏
に命じて築かせた山城で、当時は水口城と呼ばれ
た。天正18年中村一氏の駿河転封の後には増田
長盛が、文禄4年(1595)には長束正家と、五奉行
の一員が城主にあてられていることは注目される。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に際し、正家が西軍
に同調したため、帰城後、池田長吉らに攻められ
落城した。江戸時代、寛永11年(1634)の新しい
水口城(将軍家御茶屋御殿)の築城に際し、石材
を転用したと伝えられるが、これを裏付けるように、
遺構は判然としないところが多く、石垣もわずかに
残るのみである。曲輪は山頂および中腹に配置され
ており、これを区画する堀切や竪堀の跡が認められ
る。山頂部に連続して配置される曲輪には一部に
石垣が残り、その下部には長大な帯曲輪が存在する。
城のあった当時は、山頂部に高石垣を巡らし、瓦葺
の諸建物が連立して周囲を威圧したと思われる。なお、
建物に葺かれた瓦の意匠には、安土城の瓦を起源
とする、織田・豊臣系瓦の特色が見える、わずか15年
の歴史ではあったが、山麓市街地は、この城下町と
して整備されたと考えられ、水口が、近世以降甲賀郡
の中心的地位を獲得したことに大きな影響を与えた。
水口岡山城跡
眼下野洲川を見下ろし、鈴鹿の山並みを眺望する
大岡山は、低山ながらその特徴的な山容で、多く
の人々に親しまれてきた。古くは行基が開いたと
される大岡寺も、その山内に大伽藍を構えていた
とされる。天正13年(1585)、天下統一半ばに
あった羽柴秀吉は、近江東南部一帯を見渡すこと
のできるこの山に、天守閣を構えた山城を築かせ
た。城は関ヶ原の合戦により、わずか3代15年で
落城したが、この間、水口は城下町として道などが
整備され、その後の発展の基礎が築かれた。江戸
時代に、この山は「古城山(しろやま)」と呼ばれる
ようになり、水口藩の御林山となった。享保年間に
は、大岡寺の寂堂法印が地頭に移転させられて
いた諸堂を山麓に復興し、山頂に奥の院として
小祠を祀った。これが阿迦之宮の起こりで、現祠
は、昭和41年に再建されたものである。その後、
阿迦之宮は古城山の守り神、水口町全町民の
守り神として、あわせて、悲運の城主長束正家
(三代城主)の霊を祀るようになった。現在も、
毎年4月17日に、この祠前で、法要と柴燈護摩が
厳修されており、本町観光シーズンの幕開けを
告げる行事として、多くの参詣でにぎわう。
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