目賀田堅政



滋賀県愛知郡秦荘町目加田



目賀田城
天正4年(1576)織田信長が安土城を築くに当たり、
その当時の目賀田山(今の安土山)を要請された
ので、その代わりに貞政の所領地である光明寺野
(今の目加田)に新に目賀田城を構築しものです。
目賀田城は、戦国期、佐々木六角氏の重臣として
活躍した目賀田氏が築城したと伝えられる城館です。
目賀田氏は、天正10年(1582)の本能寺の変に
おいて、明智光秀に加担したことから、豊臣秀吉に
知行を没収され、一族は離散したとされ、当地、
目加田は、メカタ姓発祥の地であると言われる。



(目賀田)堅綱は33才の若さで病没し、堅政がその
後を継いだ。その年(1582)5月の末に信長は武田
討伐に際し、東征連合軍の大将で功多かった徳川
家康の労をねぎらうべく家康を安土城に迎えた時
には、家康のお迎え役に任ぜられ終始家康に随伴
した。則ち家康等は坂田郡番場の宿に一泊し、初
めて近江の國に歩を印するや堅政はいち早くその
宿舎に迎え出た。次いで家康が安土城に入り大歓
迎を受け滞在すること一週間、後に辞去して京阪堺
等へ静養遊覧の途に上がったのでこの時も堅政は
終始随行した。かくて家康等の一行は、5月晦日
(末日)堺に入り当時日本一の貿易港の様子を
見て6月2日上京の途中、本能寺の凶変を聞くや
急遽功績故郷帰国の途についた。則ち間道を急ぎ、
河内を横断し大和路より近江信楽に出て、信楽の
豪族多羅尾家の配慮で天下の様子をうかがうこと
二昼夜、家康身辺の危ないことを察し、夜陰にまぎ
れて土山に出て伊賀丸柱より加太を越え、伊賀白子
の浜より漁師の小舟に乗り領國三河に定着すること
を得たと伝えられている。従う者僅か6、7人これ家康
一生中の一大難事を称するもので、後に家康幕府を
開くや甲賀・伊賀武士の中には当時の功を愛でられ
禄を授けられた者が多かったと聞く。この家康潜行に
際し、「 目賀田も御共いたし候へ」と家康の御意で
あったが、領地の目加田の方が如何なっているやら
気掛かりなので止むなく一行と土山で別れ目加田へ
帰って来た。則ちこの土山で家康と別れた事が一生
の運命の別れ道ともなった訳である。居城目賀田城
へ帰ってみると想像していた通り天下は既に明智勢
一色で、堅政も致し方なく主君信長に申し訳建たぬ
と思いちつも動乱の京都へ急いだのであった。まこと
に人間興亡の岐路ほどくしきものはない。目賀田氏
の没落は、動乱の京都へ馳せ上ったその時既に
宿命的なものとなっていた。    (目加田誌より)




目賀田堅政の子守成は、水野忠重の孫娘を室とする。

楞厳寺


水野忠重は、徳川家康の生母・於大の方の弟。

兄・信元が武田氏との内通の嫌疑により織田信長
に殺害される。その後、家督を継いで信長に仕え、
佐久間信盛の与力となる。信盛追放後は、織田信忠
の与力となる。本能寺の変の時、織田信忠と共に
二条城にいたが、二条城から脱出して刈谷に逃げ戻る。


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