松原内匠
亘利城屋敷の跡
岐阜県羽島郡川島町
兄の松原源吾とともに織田信長に仕える。
このあたりから南方にかけて城屋敷の地名が現
存する所である。
今からおよそ450年程前の「松原島」の豪士・松原
源吾芸久及び弟松原内匠芸定の亘利城屋敷の跡
である。
源吾は天文の頃(1533)その所領が尾張の国・
葉栗郡松原村(現川島町渡町)を中心に、笠田・
野中の各村に及ぶ有力な支配権を持つ豪士であり、
弟内匠と共に土岐頼芸の家臣であった。その後
斎藤道三の配下となり、天文13年(1544)8月14日
源吾は織田信秀(信長の父)の美濃への侵攻の
時、無動寺村光得寺(現笠松町)の砦で、土岐頼
芸の末弟である土岐八郎頼香を道三の密命を受け
殺害し、寵愛を受け広い範囲に領地を賜ったの
である。
また弘治元年(1555)の長良川の戦には、源吾は
斎藤義竜(稲葉山城主)の軍に属し、松原次郎
左衛門(笠田村)は道三(鷺山)方に属し同族相
別れて戦に臨んだ。その後は義竜に身を寄せ、
一族の家門と繁栄を守ったのである。
一方弟内匠は、永禄9年(1566)信長、稲葉城攻め
の折、墨俣一夜城築城大工の総棟梁として、松
倉湊で造材し筏で運び美濃攻めに活躍し、翌10年
(1567)稲葉山城はついに落城し、信長は稲葉城
主となった。
戦国の世、松原一族は家門の存続と領地の保全
や一族子孫の面倒を見るため、水害の多くなった
松原をはなれ、支配領地の野中・平島・若宮地・
薬師寺(現岐南町)・米野・中野(現笠松町)の各村
に移住し、広い範囲に勢力を張り所領を守った。
時に安土桃山時代(1570〜1595)であった天正14年
(1586)この地に移住した野田・川瀬一族の住地と
なり、享保年間に始まった川まつりはこの南北の道
を境に西側に西組、東側を東組として行われ、現在
に至ったのである。
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