松平久子
随念寺
岡崎市門前町
1563年に家康が創建した楼門と白土塀の美しい寺で、
松平七代清康(家康の祖父)の妹・久子の墓がある。
久子は、家康が生母於大と生別して以来、家康を
養育した人。東海道を見下ろす丘陵に建てられた
一連の社寺の中でも、幕府の庇護が厚く、城の
防衛拠点としても名残りを、今もよく残している。
松平久子の娘(父は鈴木重直)は、遠山利景に嫁いで
いる。利景の兄は、明智光秀の娘婿の明智秀満である。
足助城
東加茂郡足助町
足助の鈴木氏は忠親→重政→重直→信重→康重
と5代続き、16世紀に入ると、岡崎の松平氏との間で
従属離反を繰り返すが、永禄7年(1564)以降は松平
氏のもとで、高天神城の戦いなどに武勲をあげる。
さらに、明智秀満と遠山利景の兄弟の父は、明知城主
遠山景行、母は三河の広瀬城主三宅高貞の娘である。
東広瀬城
豊田市東広瀬町
伝承では興国5年(1344)児島高徳が築城したといわれる。
そういえば、豊田市と土岐市は直線で30km
くらいしか離れていない。足助城と明知城で
あれば、20kmくらいしか離れていない。
伝えによれば、明智左馬之助光春(秀満)の
妾腹の子、太郎五郎が、近江国坂本城が
落城したため、土佐にのがれ、坂本城の地名、
坂本姓を名乗って帰農した後に四代目が酒
造業に転じた。やがて町人郷士となった。
明智光秀の妹が、母であるという斉藤利三
の妹は、土佐の長宗我部元親の妻である。
坂本家十代、坂本権平の弟だった龍馬は、明智
につながる家系を誇りとして、桔梗紋をつけた。
前にも述べましたが、むろんこの種の家系伝説
というのはほとんど付会説か作りばなしが多
いのですが、坂本家の紋が光秀の桔梗紋を継
いでいることを思うと、坂本家ではたてまえとしては
左馬助の子孫を称していたことを思うと不思議
でなりませんでした。付会説か作りばなしか
もしれません。しかし、江戸時代の末期におい
て、竜馬も、坂本家の紋が光秀の桔梗紋である
ことの意味するものを理解していたはずだと思
います。また、徳川幕府、諸藩も竜馬の桔梗の
紋の意味するところを分かっていたに違いありま
せん。特に、徳川家は、桔梗の紋の重さを理解し
ていたと思います。そして、歴史が動いていった。
坂本竜馬・中岡慎太郎像
(京都市東山区、円山公園内)
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