前野清助




前野清助地蔵と野田墓
前野清助はこの地、前野村の出で、秀吉の時代に
但馬出石城の家老にまでなりました。城主は同じく
前野村の出で伯父の前野将右衛門長康で、秀吉と
蜂須賀小六とは1555年頃から、生駒屋敷での友人
でした。ところが1595年当時太閤だった、秀吉の甥
の秀次が謀叛人だと淀君から進言され切腹、哀れ
後見人をしていた将右衛門も切腹、せの子景定切腹、
同おつぎの方斬首、前野出の秀次の家来達も
三条ヶ原で打ち首となりました。清助はこれを見届け、
遺品を持って前野村に帰り、小さな草庵(後の観音禅寺)
を作り、毎日を読経三昧、夜は村の衆に武功の夜話
をしました。その後、前野姓は名乗れず、各々野田、
吉田、岩田、石川、村瀬等に改名し、武士を捨て、
目立たない様、静かに農業をしました。ここは
清助一族の墓であり、野田墓と呼ばれています。





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