前田與十郎


                           下之一色城
                   
                         名古屋市中川区下之一色町


                   

                   天正12年(1584)6月織田信長の死後、其息子信雄
                   と秀吉が争った。此時前田與十郎城主は秀吉に味方
                   した。家康は織田氏に味方した。それだから家康は
                   一色城を攻めに来た。其時城は亡た。


                             正色小学校
                   



                               前田城址
                       前田城址
                       名古屋市中川区前田西町(速念寺)

                           前田速念寺の由来
                  ここはもと海東郡前田村と言い、前田城があり、前田氏
                  発祥の地である。利家公も前田で生まれ、幼少にして
                  前田城の出城、新設の荒子城に移って成長したという
                  のが寺伝である。前田氏は菅原道真公を祖と仰ぎ、
                  梅鉢の紋を用いる。前田氏は織田信長に属し、西に
                  蟹江城、東に荒子城、南に一色城、等を支配し、
                  前田城はその中心であった。前田城は、天正12年
                  長久手の合戦ののち、秀吉方についたため、家康方
                  の攻撃を受け落城、城主前田与十郎は蟹江で討死。
                  その子長種は北陸にのがれて利家に仕え、一万石(
                  のちに二万石)を得た。利家の長女幸(こう)を妻とした。
                  利家の叔父前田利則は、出家して意休と号し、浄土真宗
                  速念寺初代となり、速念寺は前田氏の鎮魂の寺となった。


                       



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