京極高次
京極高次墓
滋賀県米原市(徳源院)
本能寺の変後、明智光秀に味方したため、秀吉から
追われるが、妹(竜子)が秀吉の側室になったので復帰。
高次の妻は秀吉の側室・淀君の妹、徳川秀忠の妻・
お江の姉であるお初。(父は浅井長政、母は織田信長
の妹・お市の方)関ヶ原の戦いでは、徳川家康につく。
常高寺
小浜市
浅井三姉妹の次女として生まれたお初(常高院)が、
夫・京極高次の菩提を弔い、さらに父母・浅井長政
とお市の方らの供養のため、若狭小浜の後瀬山山麓
に建立を発願。お初は大阪冬の陣(1614)・夏の陣(1615)
で和平の使者として徳川、豊臣両家の間を奔走したことでも
歴史にその名を残している。寛永10年(1633)にお初が江戸
で亡くなると、その遺体は小浜まで運ばれ、常高寺に埋葬。
京極竜子は武田元明の正室、のち豊臣秀吉の側室。
武田元明の墓
高島市マキノ町海津・宝幢院
大津城
大津市
大津城の戦い
慶長5年(1600)9月7日から9月15日まで、大津
城を巡っての戦い。関ヶ原の戦いの前哨戦。
西軍の京極高次は、突如東軍に寝返り、大津城に籠城。
これに対して、毛利元康を大将とし、立花宗茂、小早川
秀包、筑紫広門ら15000人の軍勢をもって、9月7日より
大津城に攻撃を開始した。京極高次らは奮戦するも、
9月15日に降伏し、大津城を開城する。高次は助け
られ、高野山に上がって出家することになる。
大津城の戦いで西軍は勝利するが、15000の兵力を
関ヶ原に向けることが出来なかった。特に、立花宗茂
が関ヶ原に参戦出来なかったことが、西軍にとっては
不運だったと言われる。宗茂は、戦後に改易。関ヶ原戦後、
徳川家康は、この功により京極高次に若狭一国を与えた。
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