黒田城趾
愛知県一宮市木曽川町黒田(黒田小学校)
黒田城
織田伊勢守信安岩倉城に在りて山内但馬守盛豊を
黒田の城代とした。
弘治3年(1557)7月山内但馬守盛豊、黒田城で夜討
にあい盛豊、長男十郎共に討たれた。
犬山城主織田十郎左衛門信清の弟織田勘解由左衛
門尉廣良城主となる。
永禄5年(1562)織田勘解由左衛門尉廣良が美濃軽
海で討死したあと、犬山織田の家老和田新助城主と
なる。
天正2年(1574)長島における一向一揆の戦いで新助
討死し、弟の和田八郎城主になる。
天正10年(1582)織田信長、明智光秀に討たれた後、
織田信雄は伊勢・尾張を領することとなり、清洲へ入り
沢井左衛門尉雄重を黒田城主とした。
天正18年(1590)小田原北条氏攻めのとき、一柳伊豆
守直末戦死、秀吉は弟の一柳四郎右衛門に後を継が
せ黒田城主とした。四郎右衛門あらため一柳監物と名
乗った。
秀吉の死後、家康側につき関ヶ原の戦いの戦功により
伊勢神戸5万石に転封された。
その後、家康の四男松平忠吉が尾張に封ぜられ家臣
冨永丹波守忠兼は一柳監物の去ったあとの黒田城に
入った。「清洲分限帳」によれば慶長14年まで黒田城を
あずかっていた模様である。
山内一豊像
黒田城趾にて
山内一豊この城に生まれる(1545)
弘治3年(1557)7月黒田城夜討にあい父盛豊、兄十
郎討死。
一豊と母弟妹は土居の後ろにかねて作っておいたか
くし窓を突き破って竹藪に逃げ、生竹を倒して橋とし堀
を渡って岩倉城にたどりついた。
のちに信長、秀吉に仕え、小田原戦の後、秀吉より掛
川5万石の領主に封ぜられた。
関ヶ原の戦いでは、いちはやく家康側につき、戦後この
功により、土佐一国20万石の大大名になった。
山内一豊の妻が夫の立身のために馬を買う金を出
した話は、古来妻の内助の功として有名。
一宮市木曽川資料館
一宮市木曽川町黒田
山内一豊を中心に一宮市域の戦国武将を展示。
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