黒田官兵衛



滋賀県木之本町

天文15年(1576)、黒田職隆の嫡男として姫に生ま
れる。黒田氏は、「寛政重修諸家譜」などによれば、
近江国伊香郡黒田村(現在の滋賀県伊香郡木之本
町黒田)の武家出身とのこと。豊臣秀吉ね側近として
仕える。ドン・シメオンの洗礼名を持つキリシタン大名。




黒田家の由来
筑前・福岡52万石・黒田藩の始祖は、当地の御廟
に祀られている。佐々木源氏(近江源氏)の流れを
くむ黒田判官・源宗清(別名・宗満)公であり、この
地・近江国伊香郡(木之本町)黒田村に住み、湖北
の荘園の領主として、黒田判官と称した。黒田村の
中央の小字・構と称するこの一町角が往年の構屋敷、
即ち黒田判官の邸址である。黒田判官・宗清公
(1278〜1357、享年79。法名道法)より数えて6代
目・高政公の時代、永正8年(1511)、山城船岡山
の戦いの後、備前邑久福岡村に移り住むまでの約
200年間黒田氏は6代にわたり、この地に居を構えた。
この構屋敷から西へ約1km離れた余呉川対岸の
山麓、小字を穂先谷(今の保崎谷)の観音寺に、
かっては穂先長者とも伝えられている源宗清公が
寄進した当地いわれる鎧の草摺があった。更に南
1.7km離れた田井(今の田居)の寿徳寺(黒田村より
移築された寺院、今の樹徳寺)には、黒田氏の歴代の
墓石と黒田官兵衛孝高如水公の肖像画の掛軸がある。



黒田藩の歴代藩主
初代孝高(如水)
二代長政
三代忠之
四代光之
五代綱政
六代宣政
七代継高(宣政の甥男)
八代治之(徳川宗尹の五男)
九代治高(京極高慶の三男)
十代斎高(徳川治斎の次男)
十一代斎清
十二代長溥 (島津重豪の九男)
十三代長知(藤堂高猷の次男)
十四代長成(枢密院副議長)
十五代長禮(宮内庁式部職狩猟官)
十六代長久(山階鳥類研究所所長)
十七代長高


観音寺


樹徳寺


禅台寺

可児市下恵土



ここ禅台寺境内の一角に石見守勝頼の葬られた墓がある。
平岡石見守頼勝は、父(溝杭頼俊)とともに諸国を流浪し、
小早川秀秋に仕えてその家老となる。関ヶ原合戦のとき、
頼勝は黒田如水(官兵衛)の娘を妻としていたので
、如水の子長政と謀り、西軍に属していた秀秋を東軍に内通させた。
秀秋は、西軍として松尾山に陣した。正午頃になっても戦いは
勝負がつかなかったため、東軍が秀秋陣に対し銃撃をして
西軍を攻めるように促した。これにより秀秋は、西軍の陣へ
突入し、東軍の大勝利となった。戦後の論功行賞により、
頼勝は、秀秋により2万ん石(備前小島)を与えられた。
まもなく讒言にあって、再び流浪の身となったが、徳川家康は、
その前功を認めて、慶長9年(1604)8月晦日、美濃国内の可児郡など
1万270石余りを与え、頼勝は、徳野村に屋敷を構えて住んだ。
慶長12年(1607)48歳で死去し、禅台寺に葬られた。

看板では、頼勝は黒田如水(官兵衛)の娘を妻と
するとあるが、黒田如水(官兵衛)の姪のようだ。




戻る