黒田長政


五明稲荷


五明稲荷
半兵衛が三木城攻略中の頃、摂津有岡城主荒木村重が
信長に反旗を翻した。村重と旧知の間柄であった半兵衛
の親友黒田官兵衛は、村重ば翻意する様説得に赴いたが、
却って石牢に幽閉され帰って来れなくなった。
短慮の信長は官兵衛も寝返ったものと思い、官兵衛の
嫡男松寿丸(後の黒田長政)を殺せと秀吉に命じた。
秀吉は驚き半兵衛と相談した。半兵衛は「官兵衛に二心無い」
と信じていたので秘かに丸寿命丸を五明に匿った。






黒田長政・竹中重門陣跡
黒田長政・竹中重門陣跡
岐阜県不破郡関ヶ原町

関ヶ原の戦いの時、この山頂には長政と重門が陣を敷く。
霧も晴れ上がった午前8時頃、ここから狼煙が上げられ、
東軍諸隊に攻撃の合図が出される。同時に、西軍が
陣取る笹尾山、北天満山にも狼煙が立ち昇り、
東西両軍はいっせいに、正面の敵との戦闘を開始した。




禅台寺

可児市下恵土



ここ禅台寺境内の一角に石見守勝頼の葬られた墓がある。
平岡石見守頼勝は、父(溝杭頼俊)とともに諸国を流浪し、
小早川秀秋に仕えてその家老となる。関ヶ原合戦のとき、
頼勝は黒田如水(官兵衛)の娘を妻としていたので
、如水の子長政と謀り、西軍に属していた秀秋を東軍に内通させた。
秀秋は、西軍として松尾山に陣した。正午頃になっても戦いは
勝負がつかなかったため、東軍が秀秋陣に対し銃撃をして
西軍を攻めるように促した。これにより秀秋は、西軍の陣へ
突入し、東軍の大勝利となった。戦後の論功行賞により、
頼勝は、秀秋により2万ん石(備前小島)を与えられた。
まもなく讒言にあって、再び流浪の身となったが、徳川家康は、
その前功を認めて、慶長9年(1604)8月晦日、美濃国内の可児郡など
1万270石余りを与え、頼勝は、徳野村に屋敷を構えて住んだ。
慶長12年(1607)48歳で死去し、禅台寺に葬られた。

看板では、頼勝は黒田如水(官兵衛)の娘を妻と
するとあるが、黒田如水(官兵衛)の姪のようだ。

黒田長政公墓

渋谷区広尾・祥雲寺

豊臣秀吉、徳川家康の天下統一に貢献した、黒田長政
(福岡藩
52万石余初代藩主)は、京都紫野大徳寺の
竜岳和尚に深く帰依していました。

元和9年(1623)に長政が没すると嫡子忠之は、
竜岳を開山として祥雲寺を建立しました。

この黒田長政治の墓は、墓標形として建てられた
雄大なもので、墓地の右手奥にあります。






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