国友鉄砲の里資料館
滋賀県長浜市国友町534
鉄砲の里 天領・国友
鉄砲は、天文12年(1543)ポルトガルから種子島
に伝来しました。その後、根来・堺でも生産されて
いますが、国友では足利将軍からの制作の命によ
って生産がはじまりました。以来、国友鍛冶は信長
・秀吉の保護を受け、特に、国友の技術に目をつけ
た徳川家康は「天領」として統治しました。
一方、国友鍛冶は御用鍛冶として結束を固め、分
業体制を導入して大量生産につとめました。こうし
て国友は、我国最大の鉄砲工業地として栄えてい
きました。江戸時代初期が国友鍛冶の最盛期
せしたが、世の中が平和になると、鉄砲の受注は
少なくなり、鍛冶師たちは金工彫刻や花火などに
活路を見出していきました。金工彫刻は臨川堂充
昌とその弟子たちによって技が磨かれ、目を見張
る作品が生み出されました。いまも長浜の曵山に
その粋を見ることが出来ます。また、江戸時代後期
には、東洋のエジソンとも呼ばれた科学者、国友
藤兵衛(一貫斎)を輩出しました。一貫斎は、自作
の望遠鏡で日本で始めて宇宙をのぞいた人で、
国友は日本の天文学発祥の地とも言われてい
ます。この様に創造性と美意識に満たされた国友
村の風土は、他にも儒学者、医学者、文学者
茶道家などを数多く生んでいます。
司馬遼太郎文学碑
国友鉄砲鍛冶
国友村に次郎助という鍛冶がいた。年の頃はわから
ないが、若者のような気がする。かれは螺子について
さまざまに想像し、試みに刃の欠けた小刀でもって
大根をくりぬき、巻き溝つきのねじ形をとりだし、もう
一度大根にねじ入れてみた。これによって雄ねじと
雌ねじの理をさとり、老熟者に説明すると、一同、
大いに次郎助をほめた。その名が「国友鉄炮記」
にとどめられていることからみても、かれの名と
功は感嘆されつつ伝承したものとおもえる。
国友鉄砲鍛冶
薩摩の種子島に鉄砲が伝来するのは、天文12年
(1543)8月である。ところが「国友鉄炮記」によると、
伝来してわずか一ヵ年で、国友村で国産の二挺が
完成した、という。信じがたいほどのはやさだが、
前後のことから考えあわせるとほぼ本当のことの
ようにおもえる。「国友鉄炮記」によれば、種子島
の島主の時堯は、ポルトガル人から得た鉄砲を
島津義久に贈った。もらった島津義久が、京の将軍
足利義晴にこれを贈ったという。その義晴が、
侍臣細川晴元に、これをつくるよき鍛冶はないか。
といって、さげわたした。細川晴元が、北近江の
守護職である京極氏に相談すると、自分の領内に
国友村というすぐれた鍛冶村がある。と言い、天文
13年2月、モデル一挺をこの村にさがわたした。一村
の鍛冶があつまってその仕掛けを見きわめ、完成
したのが、わずか六ヵ月後の8月12日だったそうで
ある。 司馬遼太郎著「街道をゆく」より
国友鉄砲鍛冶
国友鉄砲鍛冶
歩くうちに、古い門を構えた屋敷があって
門の横が店舗になっている。
店の板壁に木製の看板が打ちつけられていて、
天文十三年創業
鉄砲火薬商 国友源重郎商店
とあるのをみておどろいた。
天文十三年といえば、鉄砲伝来の翌年で、国友村
がその製作に成功した年である。むろん世界最古
の鉄砲火薬店といっていい。客も店の人もいなか
った。やがて奥から婦人が出てきた。当家の夫人
であることがわかったが、そのはじけるような活発
な人柄から、最初の瞬間、この家のお嬢さんかと
おもった。ともかくも、この夫人が、私どもを邸内
の資料館につれて行ってくださった。
司馬遼太郎著「街道をゆく」より
「星を見つめる少年」像
国友一貫斎生家
読書する少女
司馬遼太郎文学碑
国友村は
湖の底のように
しずかな村だった。
家並はさすがにりっぱで
どの家も
伊吹山の霧で
洗いつづけているように
清らかである。
司馬遼太郎著
「街道をゆく」より
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