九鬼嘉隆・守隆


常安寺

鳥羽市鳥羽

志摩の国衆の一員として身を起こし、九鬼水軍を
率いた水軍武将。関ヶ原の戦いでは西軍に与し、
敗れて自害。子の守隆は東軍に与し、どちらが
敗れても、家名を存続させるためだったという。

常安寺


九鬼嘉隆の子、守隆が父の菩提を弔うために
慶長12年(1607)2月、それまであった大福寺
を改め建立した寺である。境内には九鬼氏の墓
があり、九鬼嘉隆が所有していた刀や肖像画(額)
が残されている。屋根瓦には嘉隆の紋(三ツ巴)
とその子守隆の紋(七曜)が使われている。

守隆の生前から起っていた御家相続争いの
解決策として幕府は、三男・隆季を丹波、五男の
久隆を摂津にそれぞれ分けて、九鬼家を解体。



九鬼家の廟所






首塚




鳥羽城主で九鬼水軍の将として活躍した九鬼大隅守
嘉隆は、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで石田三成
率いる西軍に味方したが敗れ、答志和具に逃れた。
嘉隆の家督を継いだ守隆は、大坂に行き、家康に
父の助命を懇願し、福島正則の協力もあり、ようやく
許された。守隆は、急いで赦免の使いを鳥羽み送る
が、嘉隆はその使者の到着を待つことなく、10月12日
にこの島に洞泉庵(明治に廃寺、現在の和具公民館
付近)にて自刃した。自刃後、胴部は胴塚に葬られ、
首塚は徳川家康の実検に供され、持ち帰られた後、
ここに葬られたとされている。首塚にの自然石に
「大隅大権現」と刻まれている。



胴塚




血洗い池


関ヶ原の戦いで親子が東西に分かれて戦った
九鬼家。父親の嘉隆は西軍(石田光成)、
子の守隆は東軍(徳川家康)についた。
負けた西軍に味方していた嘉隆は、最後の地
と定めたこの答志島に渡り、洞仙庵で切腹した。
前庭になるこの池は、その時、血で染まった
刀を洗ったといわれる場所である。




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