光得寺
羽島郡笠松町無動寺
光得寺の鐘と仏像
この寺の梵鐘は、室町時代の銘が彫りつけられて
おり、岐阜県の重要文化財に指定されている。
特に音色がよいといわれている。また、織田信長
が美濃攻めの時、陣鐘として使ったという言い
伝えもある。この鐘に彫りつけられている銘には、
文明7年(475)美濃国 長塚宮
(現在、各務原市那加町長塚 千力雄神社)
大永5年(1525)尾張国高田寺
(現在、愛知県西春日井郡師勝町 高田寺)
天正14年(1586)尾張国万松寺
(現在、名古屋市中区大須町三丁目)
明治9年(1876)無動寺村光得寺
としるされている。
信長は稲葉山城攻略のため、この付近へ二度
攻め込んできている。永禄9年(1566)旧暦8月
河野島(今の羽島郡東部一帯)へ攻めいり、斉藤
竜興の軍と戦ったが、台風がきて大水となり大
損害をこうむった。二度目は翌永禄10年旧暦
8月である。この時は長塚宮へ戦勝を祈願して
稲葉山城を攻め落とした。後日長塚宮へはたく
さんの田畑を寄進している。三ヶ所目の万松寺は
父信秀の建てた寺で、信秀の菩提寺である。
信秀も天文13年(1544)と16年に美濃攻めのため、
この付近へ攻め込んできている。この梵鐘が少し
小型であることと、このように信長とゆかりのある
ところにあったことから、陣鐘伝説が生れたの
であろうか。信長は岐阜城(稲葉山城)にいた
頃、比叡山の寺をを焼いたり、一向宗(今の
浄土真宗)の本願寺を攻めたりした。寺の勢い
が強いが強くなって、信長が天下をおさめようと
する計画にさからったからである。伊勢の長島
では、信者たちの心を合わせてたてこもったので、
信長は三度も攻めなければならなかった。
この付近でも、一向宗の寺へは攻めこんでくる
かもしれないといううわさが流れた。光得寺では
仏像を河原へうめてかくした。ところが、運悪く
大水が出て、仏像は北方村へ流れていき、そ
こでまつられたという。現在、対岸の光徳寺に
も同じような言い伝えがある。流れてきた
仏像は一たん無動寺村の光得寺へかえされ
たが、夢のお告げで再び北方村にまつら
れたと「尾張葉栗見聞集」に書かれている。
無動寺の戦い 無動寺
無動寺村は、今から約430年前、天文13年(1544)8月、
尾張の織田信秀(信長の父)と稲葉山(金華山)の
斉藤道三との戦いの地である。織田勢五千余人は、越前の
朝倉勢七千余人と相呼応して、8月15日を期して稲葉山を
挟撃せんとするや、道三は、土岐八郎頼香を大将にして
お成り道筋を大手とする軍をおこし、無動村に進め、安養山
光得寺を砦構にとりたてた。これを知る織田勢は、密かに
14日夜半、寺の砦を取り巻き、四方を天をこがさんばかり
に篝火を焚いた。不意をつかれた寺の内外に陣する頼香
の陣営は、人馬諸共興奮とざわめきに混乱を呈した。
さらに道三は、近頃手なずけた松原源吾(葉栗郡松原
の住人)に頼香殺害を密命していたのである。源吾は、
この時ぞと郎党十数名を引き連れて、頼香の寝所に
乱入して自害せしめたのである。頼香は、道三(義父)
のために戦いながら、土岐一族を亡さんとする野望の前に、
なんの罪もなく消えた。大将なく手勢を連れて夫々の
在所へ撤退し、頼香は、むなしく寺の隣の薮かげに葬
られたのである。土岐塚は、この岐阜勢の大将土岐
八郎頼香(土岐嫡流政房八子、道三の女婿)の墓である。
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