古墳時代
断夫山古墳
名古屋市熱田区旗屋
東海地方最大の前方後円墳で、全長151m、前方
部の幅116m、後円部の直径80m、前方部の高さ
16.2m、後円部の高さ13mの規模を誇る。
前方部と後円部のくびれ部に「造り出し」と呼ぶ小丘
部が西側にある。後円部は三段築成であったと思
われ、一段目に須恵質と土師質の円筒埴輪を巡ら
していた。
この古墳は6世紀始め、尾張南部に清直をもった尾
張氏の首長の墓と考えられている。
八幡山古墳
名古屋市昭和区山脇町1
八幡山古墳
国の史跡に指定(昭和6年)されている県下最大の
円墳。高さ10m、直径82m、まわりは掘になっている。
大正8年、公園敷地に編入された当時は老松がうっ
そうとしていたが、戦争中、高射砲陣地設営のため
伐採されてしまった。
戦後再び緑化され、昭和57年からは緑地保全地区に
指定されている。
指定地面積10,932u
名古屋市の中心部近く鶴舞公園の東南隅の御器
所台地に築かれ、眼下に生産地の湿田を見下す
位置にある。東海地方最大で全国的にも有数の
円墳である。
直径82m、高さ10m、濠の幅は平均して10mの規模
のもので、周濠(堀)とその外側の周堤(現状は市
道)も良く残っている。
戦前、墳丘から埴輪が採取されているが、戦災で
失われ戦後、墳丘が掘り荒されていたのを、名古屋
市が公園整備の中で土盛り整形しているので、その
まま築造当時の姿ではない。築造年代についての
確証を欠くが、5世紀の中頃の古墳といわれている。
この御器所台地の西端には、八幡山古墳の北方に
隣接して一本松古墳(現名古屋工業大学構内、前方
後円墳)もあり、吹上ホールのあたりにかけて、一群
の古墳が築かれていた。その中心の古墳と考えられ
る。昭和6年国の史跡に指定された。
那古野山古墳
名古屋市中区大須
浪越公園跡
この辺りは、修験道の寺であった清寿院の後園で
あった。明治12年(1879)市内で最初の公園として
市民に開放された。
広さ二千u程で、公園入口付近の柳の井戸は、名
古屋三名水の一つといわれた。
ここには、前方後円墳と推定される那古野山古墳が
あるが、現在は直径22m、高さ3m余の円墳状の部
分のみが残っている。
一本松古墳
名古屋市昭和区御器所町
名古屋工業大学内
一本松古墳
標高15mの台地上に営まれた一古墳群を形成し、
5世紀後半に三段築成され、全長70〜80m南西に
前方部をおく前方後円墳であったともいわれているが、
現在では直径36m、高さ8mの円墳状である。
なお、墳丘の裾を整備した際、土師質の円筒埴輪が
多数発見され、現在本学付属図書館及び名古屋市
博物館に保管されている。
呼続遺跡
呼続遺跡
この辺り、かっては呼続小学校裏貝塚と呼ばれ、早
くより知られていた。昭和55年、校舎改築の際に名
古屋市教育委員会の発掘調査が行なわれ、古墳時
代と中世(鎌倉〜室町時代)の住居跡と溝状遺構を
検出し、住居跡から土師器や須恵器、山茶碗が見付
かった。
本遺跡は、主に古墳時代を主体とする集落跡である
ことが判った。
また、この付近はその昔、
「あゆちがたしほひにけらし知多
の浦に朝こぐ舟もおきによるみゆ」
「万葉集」巻七
と詠まれた景勝の地でもあった。
名古屋市南区呼続
桜神明社古墳
名古屋市南区呼続
この古墳の名は、墳頂に桜神明社が祀られている
ことに由来するが、別に「ひめ塚」とも呼ばれていた。
直径36m、高さ4.5mの円墳で墳丘裾の西から北に
かけて周濠が残っており、比較的保存状態が良好
な古墳である。かって墳丘上から須恵器が採集さ
れ、5世紀末のものと考えられる。
守山白山古墳
名古屋市守山区
守山台地の西端に立地する。墳丘長約98m、後円部
径約50m、前方部幅35mの前方後円墳。
未調整のため埋葬部の構造や副葬品は不明であるが、
前方部の低い墳形や出土している埴輪の検討から、
古墳時代前期(4〜5世紀)の築造と考えられる。
上志段味の白鳥塚古墳に匹敵する。名古屋市内で
最も古い大型古墳のひとつである。
守山瓢箪山古墳
名古屋市守山区
小幡原台地の南部に所在する前方後円墳で、
全長63m、後円部径36m、前方部幅58m、高さ
は後円部5m、前方部はそれより80cm程高い、
二段築成の様相をとどめ、墳丘上や裾から埴輪片
が採集される。戦前は周濠に水もあったといわれる。
前方部の大きい形状や埴輪などから6世紀初頭の
ものと推定され、内部主体もそのまま残るなど
保存状況も良好で、市の史跡に指定されている。
二子山古墳
5世紀末、あるいは6世紀初頭における当地方の豪族
を葬った前方後円墳で、周濠を含めた全長は116m、
墳丘長は95m、高さは前方部・後円部とも8mである。
付近には、「白山神社古墳」、「御旅所古墳」、「春日山
古墳」が現在し、味美古墳群を形成している。
ここから出土した埴輪は、市内の下原古窯で焼かれた
と推定され、尾張の古代史を探る重要な資料としても
推定されている。
愛知県春日井市二子町
青塚古墳史跡公園
犬山市字青塚
青塚古墳について
青塚古墳は、愛知県で2番目に大きい規模をもつ
前方後円墳です。別名「大塚」、「茶臼山」と呼ば
れています。この古墳は、犬山市の中心から
南方6q、標高31mの台地の端に築かれ、古墳
の西側には木曽川によって形成された平野が
広がります。(中略)古墳の築かれた時期は、
出土した埴輪などから4世紀中頃の古墳時代
前期に造られたものと思われます。
豊臣秀吉は、小牧・長久手の戦いの時、この青塚
古墳を利用して砦を築いた。
二ノ宮神社古墳
岐阜県各務原市鵜沼西町
6世紀後半の大型の円墳。墳丘がそのまま神社の
境内となっています。大型の横穴式石室があります。
衣裳塚古墳
衣装塚古墳は、各務原台地の北東辺部に位置する
岐阜県下最大の円墳です。墳丘の大きさは直径が
52m、高さが7mあり、周囲は開墾のためやや削平を
受けていますが、北側はよく原形を留めています。
また、墳丘表面には葺石や埴輪は認められません。
衣裳塚古墳は、円墳としては県下最大規模の古墳
です。ここより南西約300mのところに県下第2位の
規模を有する前方後円墳の坊の塚古墳が所在する
ことや、本古墳の墳丘西側がやや突出する形態を
示していることから、本古墳も本来前方後円墳であ
ったものが、後世の前方部が削平されて、後円部が
円墳状に残された可能性もあります。
衣裳塚古墳の築造年代については、本古墳の埋葬
施設や年代が推定できる出土遺物が知られていな
いため、正確な判定はできませんが、およそ古墳時
代から中期にかけて(4世紀末から5世紀前半)の時
期に坊の塚古墳に先行して築造されたと考えられます。
岐阜県各務原市
昼飯大塚古墳
大垣市昼飯町
昼飯大塚古墳(国指定史跡)
昼飯大塚古墳は4世紀後半に築造された前方後円
墳で、全長150m、後円部の直径約96m、高さ約13m、
前方部の幅約82m、高さ約9.5mと、当時としては東海
地方最大級の規模を持つ。
昼飯大塚古墳は不破地域を拠点に畿内の勢力と強
く結びついた、当時の東海地方を代表する首長の墓
であると考えられる。
富士塚(お亀塚)
江南市南山町
富士塚は、5世紀末(490年ころ)の前方後円墳と
いわれています。今までに古墳は発掘されたこと
はありませんが、畑地化された前方形地帯からは、
古墳時代の埴輪や須恵器・土師器などが出土
しています。天正12年(1584)の小牧・長久手の
戦いで東軍の将・徳川家康が生駒屋敷(小折城)
を訪れた時、織田信雄と富士塚に登って、西軍
豊臣秀吉の陣形を見渡した場所です。この時、家康
は小牧山の先取りを決意したと伝えられています。
のち、この地に生駒家6代の利勝が「天地は生之
本也。先祖は類之本也。孝子慈孫其本を知らざる
可からざるなり。尾張の国士、生駒主計勝利、其祖
の為に、碑を小折村富士塚に建つ・・・・」という
書き出しで、初代家広からの由緒と武功を後の
世に伝えるため、天和2年(1682)朱子学者
林羅山の孫信篤に碑詞を頼み、六角の石碑に
刻み、亀型に台石の上に建てました。別名お亀塚
ともいれ、江南市の指定文化財になっています。
三ツ山古墳群
小牧市東田中
三ツ山古墳群
かっては三基からなる古墳群で、国道155号線の拡幅
工事に伴い北側の二基について、昭和54年に発掘調査
が実施された。
発掘の結果、二基とも一辺約20mほどの方墳で、墳頂に
割竹形木棺を埋葬し、銅鏡三面、鉄製の武器、農工具
を副葬していた。4世紀後半から5世紀前半にかけて
築かれた古墳群で、小牧市内では小木古墳群につぐ
前期古墳群である。
現在は、調査されなかった三号墳のみが残る。
なお出土品は小牧市歴史館に展示中である。
碧海山古墳
安城市
この古墳は円墳で一部破壊されていますが、平面
の直径約25m、高さ約4m(復元推定)で、頂上が
平坦で広いことがこの円墳の特徴です。大きさ、
形からみて古墳時代の前半期(1400〜1500前)
のものと思われます。桜井地区には前半期の古墳
が比較的に多くみられ、古代に西三河地方に於いて
この地域が特殊な立場にあったことを暗示しています。
藤ノ木古墳
奈良県
法円坂遺跡・倉庫構造模型
大阪市中央区
上町台地の北端にあたるこの地に5世紀後半(古墳
時代中期)、16棟以上の大型建物群が建てられた。
建物は高床式倉庫と考えられる。巨大な屋根を支え
る柱が建物内部に建てられているところに構造上の
特徴がある。すぐれた技術と設計手法によってつくら
れており、中国や朝鮮の影響が考えられる。
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