小早川秀秋


小早川秀秋陣跡
小早川秀秋陣跡
松尾山の頂き

小早川秀秋(1582〜1602)
 小早川秀秋は木下定家の子として近江の長浜に
生まれる。定家の妹が羽柴秀吉の妻になった
関係から、秀吉夫妻の養子となる。
しかし、1594年、秀吉の実子、秀頼の順調な成長
などもあって秀秋は小早川家に養子にだされる。
朝鮮の戦いでは総大将をつとめる。
1600年、関ケ原の戦いでは東軍に寝返る。
秀秋の境遇はどのようなものだったのだろうか。
秀秋と毛利の血のつながりはなく、西軍の秀頼・
淀君との血のつながりもない。それに対して、
秀秋の実の叔母の北政所(ねね)は徳川家康の
保護を受けている。秀秋は微妙な立場にいたのだ。
その功で50万石となるも、1602年亡くなる。
死因にはいろんな説がある。後継ぎが
なかったため小早川家は断絶。




小早川秀秋陣跡

松尾山からの眺め
松尾山からの眺め
写真中央が笹尾山・石田三成陣跡

稲葉正成(春日局の夫)は関ヶ原の合戦では秀秋を
説得して徳川方に内通することを勧め、黒田長政・
山岡道阿背弥などに石田三成方の動向を伝えた。
関ヶ原の陣では、戦闘の中途で石田方を
裏切った小早川軍で先頭で奮戦した。
正成の背後に妻(後の春日局)の存在が
大きかったと言われている。戦後、
その戦いぶりを家康から褒められる。



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