清洲城

清洲城
愛知県清須市朝日城屋敷1-1

尾張の守護所のひとつ





地図リンク

金箔瓦


金箔瓦
清洲小学校の体育館新築工事に伴う事前調査
として清須市教育委員会が実施。調査期間は
平成20年11月6日から平成20年12月15日。

大きさは、長さ14.2cm、幅18cm、把手を含めた厚さは
7cm、外縁部での厚さは約2.6cm。桐紋の唐破風鬼瓦
で、下端と左側約三分の一が欠損。織田信雄による
清須城の改修後に使用されたものと思われる。
愛知県清洲貝殻山貝塚資料館より

織田信長公を祀るお社

愛知県清須市朝日城屋敷1-1





良福寺

尾張旭市印場元町

萬安山良福寺は、臨済宗妙心寺派の末寺です。
久安年中(1145〜1150)土岐頼元が建立し、
無翁和尚により開かれたと伝えられます。
(一説には、治承年間(1177〜1181)土岐頼政
が建立したともいわれています)
当時は、天正年中(1573年〜1591)に織田信長
から400貫文を寄与されました。さらに天正十年
(1582)8月には信長の次男織田信雄から寺領を
賜っていることが織田信雄書状(市指定有形
文化財)から伺われます。しかし。その後の豊臣
秀吉の検地によって旧産を没収され、また小牧
長久手の戦(1584)の兵火にあって荒廃しまし
たが、寛永8年(1631)名古屋の政秀寺三世槐山
和尚が、尾張藩初代藩主徳川義直の命により
中興し、今にいたっています。この門は、見付
柱や冠木などがこの規模のものとしては太い
ことや、ほぞ完が不自然な位置にあることから
転用材を使用していることが推察されます。
寺伝によれば、この山門は中興の折に清洲城の
城門のひとつを譲り受けたとされています。
なお、昭和51年には、門扉、金具、釘隠などの
修理が行われ、平成11年には、地盤及び袖塀を
含む山門の全解体保存修理を行っています。





尾張旭市印場元町

名古屋城西北隅櫓

名古屋市中区本丸




西北隅櫓(国重文)は清洲櫓ともよばれ、清洲城
の小天守閣を移したものといわれている。




織田信長像
織田信長像
愛知県清須市朝日城屋敷1-1


濃姫
濃姫
清須市清洲公園・濃姫像



五条橋


五条橋は、室町期、斯波氏の時代から架かり、
1610年の清洲越で城と共に名古屋堀川に移さ
れるまで、まさに「御城橋」の役を果たしてきた。
信長が愛馬に跨って渡り、豊臣秀吉がほぼ、
全国統一を成し遂げた小田原征伐の帰路、
この橋の上で上畠神社へ社領の寄進を行なった。
清洲越の後、美濃路宿駅として清洲が復活すると、
旅人の往来著しく、五条橋は何度も改築された。

四間道


名古屋市四間道町並み保存地区

名古屋城の築城は慶長15年(1610)に始まり、城下
町の建設も同時に進められました。
尾張の政治の中心地も清洲から名古屋へ町ぐるみ
移転しました。これがいわゆる「清洲越」といわれる
ものです。
この地区は清洲商人の町として生まれ、堀川沿いに
は、水運を利用して米穀、塩味噌、酒、薪炭なだを城
下まちに供給する商家が軒を連ね繁栄しました。
四間道は、元禄13年(1700)の大火の後防火の目的
や商業活動のため道幅を4間(約7m)に広げたことに
より、その名がついたともいわれています。
四間道をはさんで、東側には石垣の上に連続する土
蔵、西側には町家が建ち並ぶこの独特な景観は、元
文年間(1740頃)に形成されました。堀川から荷を揚
げた石畳や屋根神様そして子守地蔵尊など、下町情
緒が今も都心に残る貴重な地域です。
名古屋市は、この地区を昭和61年6月10日「街並み
保存地区」に指定し、歴史的な街並みを守るために
必要な建物、保存すべきものを定め、修理、修景工事
に対する補助事業などを進めています。


五条橋



かつて清須城下の五条川に架けられていた橋を
清須越(慶長15年(1610)より行なわれた清須より
の町ぐるみの引越しをいう)の際に、この地に移され、
橋の名前もこれに由来するといわれる。
元は木橋であったが、昭和13年(1938)にコン
クリート橋に架けかえられた。元の橋にあった
擬宝珠には「五条橋、慶長七年壬刀六月吉日」
の銘があり、現在は名古屋城に保存されている。

清洲城跡




清洲城の石垣(復元)

愛知県西春日井郡清洲町


崇福寺

岐阜市長良福光

清洲城天主閣の大棟を飾る鯱は、岐阜市崇福寺にある。

地図リンク

戻る