勝幡城の近くには


約10km離れたところには木曽三川公園があります。

木曽三川公園
(左は1756当時の地図、右が現在)

岐阜県海津市海津町油島255-3

織田信長の時代はどうだったのだろうか。勝幡城はおおよそ津島と書いて
ある所のあたりか。いまでこそ田畑もたくさんあるが、その当時は水害のため
思うように収穫がとれなかったのではないか。織田信長が兵農分離をしたとは
いうが、この当時、この地では、農に重きをおけなかったのかもしれない。

宝暦治水


宝暦3年(1753)12月、幕府は井沢弥惣兵衛為永の立案による三川分流を
骨子とした改修工事を薩摩藩に御手伝普請として命じた。薩摩藩は家老平
田靭負を総奉行として総勢947名を当地に派遣し治水事業に当らせた。
この普請は、油島の締切堤、大榑川の洗堰など非常に困難な工事で
あったが、その期間は僅か1年で完了し、宝暦5年5月22日幕府の検分を
終えた。総奉行平田靭負は多額な工事費と多数の犠牲者を出した全責任
を負い美濃大巻で自刃し相果てたのである。工事区域は、木曽川について
は逆川以下、長良川については大榑川以下、揖斐川については牧田川
以下の範囲で、美濃国6郡141ヶ村、尾張国1郡17ヶ村、伊勢国1郡
25ヶ村および工事の内容は堤防修復延長60361間(約112km)、油島
締切堤延長1090間、大榑川洗堰(延長98間)逆川洗堰等である。



輪中の農家


木曽川、長良川、揖斐川が一緒に集まったこの地域は、昔から毎年のように
水害を受けました。今では河川の改修が進み、ほとんど水害がなくなり、
水屋もなくなりました。ここに作りました輪中の農家は、明治の中頃に生活した
比較的豊かな農家です。                       案内板より

上げ舟



上げ舟は農家が全部もっていました。洪水のときに家の道具などをのせ、
堤防まで運ぶために使いました。ふだんは底を上にしてつるし、川の水が
増えて危険になりますと舟を降ろし、座敷の前にある「舟つなぎ柿」につな
いで備えました。「舟つなぎ柿」座敷か台所の前に舟をつなぐのに便利
なように一本植えられた柿の木を言います。            案内板より

そういえば、我が家にも昭60年ごろまでは、柿の木もあったし、舟もあった。



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