勧修寺晴豊


天正10年(1582)4月25日、武家伝奏(朝廷と武家
の取次ぎ役)の勧修寺晴豊は、京都所司代の村井
貞勝の邸を訪れる。この二人の会話の中の「信長を
太政大臣、関白、将軍の三職いずれかに推任する
がよい」の解釈で、これが朝廷側から出た話なのか、
信長側から出た話なのか、それとも村井貞勝からの
提案なのかが不明で、現在も論争になっている。

5月6日、度重なる勧修寺晴豊の面会要請に応え、
織田信長は直接晴豊らと対面するも、三職推任
に関しては明確な返答はしなかった。本能寺の変
の直前の上洛時、織田信長はこの件に関して何
らかの回答をするつもりだったと言われる。武家伝奏
の勧修寺晴豊は、微妙な立場だったに違いない。

勧修寺晴豊は、本能寺前夜の茶会に出席している。

そして、明智光秀の終焉の地と言われる明智薮は、
勧修寺の周辺である。(現在は、本経寺の寺領。)

しかも、明智光秀の胴塚は勧修寺のすぐ近くにある。

本能寺の変は、勧修寺晴豊を救ったような形になる。
そんな光秀が、勧修寺の周辺の小栗栖で最期を迎
えるだろうか。かなり不自然だとお思いませんか。

明智薮

京都市伏見区小栗栖小阪町

明智光秀胴塚

京都市山科区勧修寺


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