山内一豊


                             山内一豊陣跡
                   
                               関ヶ原町

                   慶長5年(1600)家康の会津征伐に従軍した一豊は、
                   関ヶ原の戦いで西上に際し、掛川城を明け渡しての
                   出陣となりました。
                   岐阜、大垣城の戦い、ここ野上に入ると一豊外8将は、
                   一里塚より桃配山までの間の中山道左右に並列に
                   陣し、南宮山の敵に備えました。
                   その後、家康の進旗にあたり、南宮山の隊に東軍攻撃
                   の形勢がないため、使番による家康からの命令を受け、
                   山内隊は有馬、蜂須賀の隊と共に柴井のまで前進して
                   戦いました。
                   戦後、妻の内助の功もあって土佐の国主となっています。

                   


                            
山内一豊と妻の像
                   山内一豊と妻の像
                            岐阜県郡上市八幡町

                   山内一豊は、関ヶ原の戦いでは、小山軍議の席上、
                   諸将に先がけて居城掛川を明け渡し、東軍に供する
                   旨を表明。                          
                   その後、先鋒として尾張犬山城の攻略戦に援将とし
                   て参加したほか、決戦の9月15日には南宮山に拠る
                   毛利家本隊を牽制している。              

                   こんなエピソードもある。                 
                   大阪城内から味方せよという密書が届くと、妻の千代
                   はそのまま文箱に収め、「密書は封を開けずにその
                   まま上様に差し出されますように」という添書をつけて
                   夫に届けさせた。                      
                   一豊は千代の指示通り家康に提出する。       

                   戦後、土佐一国20万2000石。             


                   妻千代の機知に富んだ行動のおかげだといわれて
                   いる。                           

                   1605年9月没する。                   


                   2006年NHK大河ドラマ「功名が辻」で、ヒロイン千代を
                   仲間由紀恵、夫・山内一豊を上川隆也、徳川家康を
                   西田敏行が演じることが決まった。

             

                  千代の出生地には諸説あり、この八幡町と米原市
                  近江町の二つが有力である


                            若宮氏顕彰碑
                  

                  一豊の妻「千代」は法号を見性院といい、近江浅井
                  家の家臣「若宮喜助友興」の娘として生まれました。
                  「千代」の生誕地、飯には若宮氏の顕彰碑がある。

                           初所領の地
                  
                         滋賀県東浅井郡虎姫町
                  
                  天正元年(1573)夏、織田信長の越前朝倉攻めに
                  従軍した山内一豊は、近江と越前の国境刀根坂で、
                  朝倉軍きっての強弓の士、三段崎勘右衛門と死闘
                  を繰り広げます。三段崎が放った矢は、一豊の左の
                  まなじりから右の奥歯までを貫きましたが、これに
                  ひるむことなく、見事勘右衛門を討ち取りました。
                  そこへ家臣の五藤吉兵衛為浄が駆けつけ、一豊の
                  顔を貫く矢を口にくわえて抜こうとしましたが、
                  一豊が「顔を踏みつけて抜け」と命じたので、
                  為浄は草履を脱ごうとします。しかし、一豊は、
                  「そのまま踏め」と命令し、為浄は草履のまま
                  顔を踏みつけて矢を抜き取ったといいます。
                  討ち取った三段崎の首は秀吉のもとに持ち込まれ、
                  さらには信長の前で首実検が行われています。
                  一豊は、この武功により、近江唐国四百石の知行
                  を与えられました。近江唐国は、南に姉川を抱き、
                  北東に小谷山、虎御前山を望み、秀吉の領地である
                  長浜とは、わずか数キロを隔てた位置にあります。
                  その上、北国街道が通り北国への出入り地点として
                  重要な場所でもありました。わずか四百石とはいえ、
                  ついに念願の領主となった一豊。武将としての
                  出発点となったのがここ唐国の地でした。


                        山内伊右ェ門一豊屋敷跡
                  

                      伊右衛門屋敷と山内一豊
                  明治6年(1873)の「長浜町地籍」によると、
                  当地の周辺は、字名を「伊右ェ門屋敷」と
                  呼んでいました。また、延宝3年(1675)
                  9月15日付け「長浜古城跡御検地帳」でも、
                   「伊右衛門屋敷」という地名が載り、この
                  字名は江戸初期からある地名であることが分かり
                  ます。
                  「伊右衛門」は豊臣秀吉の家臣であった山内一豊
                  (1545〜1605)の通称なので、ここは秀吉が
                  長浜城主だった時代に、その屋敷があった場所
                  と伝えられてきました。山内一豊は、その妻・千代
                  の「内助の功」により、名馬を購入し、土佐国高知城
                  主二十万石の大名に出世したことで有名です。
                  彼は、天正13年(1585)から5年間、長浜城主も
                  つとめています。
                  このモニュメントは、一豊とその妻・千代が仲睦まじく
                  「夫婦円満」に「立身出世」していった事に因み
                  一豊と千代の夫婦像をイメージして建立しております。


                  
                               滋賀県長浜市


                      一宮市木曽川資料館
                

                
                          一宮市木曽川町黒田

                  山内一豊を中心に一宮市域の戦国武将を展示。


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