梶川高秀・高盛


                                奥城
                   
                             愛知県一宮市奥町
                   
                                  奥城
                   梶川弥三郎高盛の居城であったという。
                   小牧・長久手の戦いでは織田・徳川方の拠点の一つ
                   とされた。

                              奥町西保育園
                   
                            奥に城址碑が見える。

                        一宮市木曽川資料館
                   

                             梶川高秀
                   梶川氏は楽田(犬山市)を本拠とする楽田織田氏の
                   重臣であった。楽田織田氏は。岩倉織田氏と密接な
                   関係を保っていたとされる。
                   岩倉織田氏が信長に滅ぼされた翌年(1560)、梶川
                   高秀は信長に従い、南中島砦(名古屋市緑区)を守
                   っている。彼は以後信長軍として各地で戦い、永禄
                   11年(1568)に摂津池田で討死したという。一説では
                   奥村(市内奥町)で70歳で没したともいう。

                   
                            一宮市木曽川町黒田


                   梶川高盛は高秀の子で、父とともに奥村へ移ったと
                   思われ、奥城(一宮市奥町)に居した。天正元年(1573)、
                   高盛は信長に従い、足利義昭が籠もる槙島城(京都市
                   宇治市)攻めに加わる。その際、宇治川で先陣を
                   果たし、信長から馬を下賜されたという。信長死後は、
                   二男信雄に仕え、九百二十貫を領する。小牧長久手
                   合戦では、信長の弟信照を迎えて奥城に籠もったが、
                   秀吉軍に囲まれ落城した。信雄失脚後は、岐阜城主
                   織田秀信(信長の孫)に仕えたと思われる。文禄5年
                   (1596)、岐阜で没したという。


                            梶川高盛公宅之碑
                   

                   
                          一宮市奥町・貴船神明社

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