加納宿


ぶたれ坊と茶所

岐阜市

ぶたれ坊と茶所
このぶたれ坊と茶所、江戸時代の相撲力士「鏡岩
浜之介」にちなむものです。伝えによると、二代目
鏡岩は父の職業を継いで力士になりましたが、
土俵の外での行いが悪かったことを改心して寺院
を建て、ぶたれる為の等身大の自分の木像を置
いて罪滅ぼしをしました。また茶店を設けて旅人に
茶をふるまったそうです。ここの少し北側にある
東西の通りは、昔の中山道であり、加納宿として
栄えました。江戸時代には多くの人たちが訪れ
たことでしょう。現在では、歴史的な街並と地名等
に当時の様子を伝えていますが、ここにあった
妙寿寺は廃寺となり、「ぶたれ坊」の像は岐阜駅南
口に近い加納伏見町の妙泉寺に移されています。











岐阜問屋跡


加納新町の熊田家は、土岐・斎藤時代からこの
あたりの有力者で、信長が岐阜にあったころは
加納の問屋役をつとめていました。江戸時代に
入ると、全国から岐阜へ出入りする商人や農民の
荷物運搬を引き受ける荷物問屋に力を注ぐよう
になり、「岐阜問屋」と呼ばれるようになりました。
江戸時代、岐阜問屋は岐阜の名産品であり、尾張藩
が将軍家へ献上する「鮎鮨」の継ぎ立てをしており、
御用堤燈を許されていました。献上鮎鮨は岐阜町
の御鮨所を出発し、岐阜問屋を経由し、当時、御鮨
街道と呼ばれた現在の加納八幡町から名古屋へ
向かう道を通り、笠松問屋まで届けられました。岐阜
問屋には特権が与えられていましたが、それは献上
鮎鮨が手厚く保護されていたことによるものでした。


中山道の道標


中山道の道標
この道標は、江戸中期(1750年頃)新町と南広江
の交わる四ッ辻東南隅にたてられ中山道を往来
する旅人の道案内の役目を果たしてきました。
最初は「左中山道」「右ぎふ道」の道標でしたが、
明治初年に「左西京道」「右東京道」の標識が
追加されました。この四ッ辻は中山道と岐阜道
の分岐点で、かっては交通の要衝でありました。


加納宿高札場跡


ここは江戸時代、加納藩の高札場があったところで
す。高札とは藩が領民に法度(法律)や触(お知らせ)
を知らせるために人通りの多い通りの辻や市場など
に立てた板で作った立札のことです。加納宿では、
加納城大手門の清水川沿いのこの場所が高札場で
宿御高札場と呼ばれていました。この高札場は加納藩
の中でも最も大きく、石積みの上に高さ約3.5m、
幅6.5m、横2.2mもあるものでした。正徳元年(1711)
に親子兄弟の札が掲げられて以後、明治時代に
なるまで、何枚もの高札が掲げられました。



二文字屋


左甚五郎とウサギの欄間
昔当店のあたりは中山道加納でございました。
当店の初代上野長七郎がこの場所で旅籠二文字屋
を始めましたのが、元和6年今から375年程前のこと
でございます。月夜に川原で餅をつくウサギはご存知
左甚五郎が二文字屋に泊り彫ってくれた欄間でござ
います。が火事のとき欄間の川原から水が吹き出
し一瞬のうちに火を消したと伝えられます。










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