出生地


萱津の東宿跡


この地は萱津の東宿といわれ、庄内川をはさみ萱津
宿の出郷として、京より美濃を経て鎌倉に赴く交通の
要衝であった。また、盛んに市の立ったところで、鎌倉
時代の紀行文「東関紀行」に、「萱津の東宿の前をす
ぐれば、そこらの人あつまりて、里もひびくばかりにの
のしりあれり。今日は、市の日なむとぞいふなる。」
と当時の賑わいを記している。

「東関紀行」
鎌倉前期の紀行。作者は、鴨長明、源光行、源親行
などの説があるが不詳。京都東山に隠遁生活をして
いた作者が1241年京都を立って鎌倉に下り、2ヵ月
滞在後帰京の途につくまでの見聞を記す。「十六夜
日記」、「海道記」とともに鎌倉紀行文学の代表作。

日本史事典(平凡社)参照


明神社

名古屋市中村区中村町

鎌倉街道は鎌倉から京都へ出るための重要な道路で、
室町時代まで萱津も宿駅として大いに栄えたという。

豊臣秀吉誕生の地は、萱津の東宿跡の隣にある。
このような場所で、豊臣秀吉は1536年生まれた。
(1537年生まれの説もある。)



「東関紀行」によれば、1200年半ば、この地域は賑わっていた。


さらに、「平家物語」には、藤原師高が尾張の井戸田に
流され、萱津宿の遊君(遊女)と記載されている。


江戸時代、美濃路が整備されるまでは、この鎌倉街道
は京都へ出るための重要な道路であった。・・・・・・・・

約300年後このような場所で、秀吉は生まれた。
彼の思考や性格形成と深く関わっているのだろうか。



現地に立って思うことは、このような場所で生まれた豊臣
秀吉は、お百姓のイメージとは異なった感じがしてならない。

さらに最近は、加藤廣著「秀吉の枷」のこの部分が私の
心をはなしません。秀吉は丹波の≪山の民≫の出身である。
それも遠祖は藤原氏の最も高貴な血筋に遡ると信じている。
父弥右衛門の代に、豊沃な土地・尾張中村在に降りて
平地への≪溶け込み≫を図った。ただの農民の子を自称
しているのは、そのほうが出身を探らず、警戒心を抱かれ
ないために過ぎない。内心では、自分の血は≪天皇側近
筆頭≫との自負と誇りを持ち続けている。様々な説がある
と重いますが、なぜかこのことが重要な意味を持つのでは
ないかと思わされたのです。今後、尋ね求めていきたい。


豊公誕生之地
豊臣秀吉出生地
   名古屋市中村区中村町(中村公園内)

日吉丸となかまたち

中村公園内

鎌倉街道

愛知県海部郡甚目寺町

光明寺

愛知県海部郡甚目寺町

光明寺は豊臣秀吉が日吉丸の頃、修行を積んだといわれる。



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