修理夫人
岩村城
岐阜県恵那市岩村町
織田信長は遠山氏の抱きこみをはかるため、政略
結婚として自身の叔母(修理夫人)を遠山景任に
嫁がせた。景任は嗣子なくして病死。織田信長の
五男・御坊丸を養子としてむかえた。
まだ幼かったため、城の采配は織田信長の叔母・
修理夫人が握った。そのため女城主といわれた。
元亀3年(1572)、武田信玄の武将・秋山信友
は岩村城を攻撃するも、なかなか陥落しそうも
ないため、秋山信友は”和睦に応ずれば、あなた
を妻とし、御坊丸を養子として家督を譲る”と和議
をもちかけた。修理夫人はこの提案を承諾した。
しかし、御坊丸は甲斐に送られ、信玄の人質
となった。織田信長は、このことに激怒。
天正3年(1575)長篠の戦いで武田勝頼を破る。
この機に乗じて、岩村城を攻め立て、陥落。
信長は、秋山信友・修理夫人・他3人の武将を
逆さ磔にした。この時、修理夫人は、
「我れ女の弱さの為にかくなりしも、現在の叔母を
かかる非道の処置をなすはかならずや因果の
報いを受けん」と絶叫しつつ果てたという。
その7年後、本能寺の変が起きた。
安養院
織田信長の三男三七郎信孝、羽柴秀吉と再度の戦
いに敗れ、天正11年5月2日安養院に於て自刃。
辞世の一首
むかしより主をうつみの
野間なれば報をまてや
羽柴ちくぜん
この句が思い出されてならない。
戻る