石田堤










石田堤
この堤は、天正18年(15906月、石田三成によって、
忍城水攻めのために築かれたことから、石田堤と呼ばれています。
天正183月に始まる豊臣秀吉の関東平定に伴い、
北条氏に味方する成田氏の拠点である忍城は、同年6月、
石田三成、大谷吉隆、長束正家らによって、包囲されてしまいます。
石田三成らは、地形を見て、忍城を水攻めにすることにし、
全長28kmに及ぶ堤をわずか1週間で作り上げたと言われています。
実際には、自然堤防や微高地を巧みにつなぎ合わせたものと思われ、
現在残っているこの堤も、自然堤防上に1~程盛土をしたものです。
こうして堤が完成し、利根、荒川の水を引き入れたのですが、
地形的に、城や城下町より下忍、堤根方面に溜まってしまい、
遂には堤が決壊して、水攻めは失敗に終ります。しかし、
北条氏の降伏により、忍城は遂には開城するのです。
今日では、ここ堤根に約250mの堤を残すのみですが、
江戸時代、日光裏街道沿いに植えられた樹齢300年余の
松や檜葉が並ぶ様は、往時をしのばせる貴重なものと言えましょう。





丸墓山古墳と忍城


天正18年(1590)、豊臣秀吉の命を受けた石田三成は、
総延長28km(一説には14km)の石田堤を築き、忍城を水攻めしました。
丸墓山古墳は高さが、19kmもあり、周辺を一望できることから、
三成の陣が張られたと言われています。北の利根川水系、
南の荒川水系の水を流し込んでの城攻めは成功せず、
豊臣秀吉が唯一落とせなかった城とも言われています。





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