国分寺
国分寺
奈良時代に全国66ヵ国と3島に建立された、朝廷発願
の寺院。僧寺を金光明四天王護国之寺と称し、奈良の
東大寺を総国分寺とした。尼寺は法華滅罪之寺(国分
尼寺)と称し、奈良法華寺を総国分尼寺とした。737年
の疫病流行などにより、かねて地方における政教一致
を企図した聖武天皇が741年、国家安穏、五穀豊熟を
念願して、建立を発願する詔を発した。寺地は国府の
近くとして国司の支配下に置き、七重塔を建て、金光
明最勝王経、法華経各10部を書写して納め、封戸と水
田を施入。僧寺には僧20人、尼寺には尼10人を置いた。
760年代半ばごろほぼ全国的に完成した。だが、定額
寺の建立などで国分寺の担った鎮護国家の仏事が軽
減されると次第に存在意義が薄れ、平安中期より衰退
し、室町時代にはほとんど遺構を残すのみとなった。
日本史事典(平凡社)参照
愛知県稲沢市矢合町字城跡
戦国時代に一色城主橋本伊賀守道一の弟大膳の
居城であったが継嗣がなく廃城となった。
その址へ、追善のために一本松から移したのが
円興寺(国分寺)である。
戻る