稲葉正成
(もと春日局の夫・老中稲葉正勝の父)
元亀二年(一五七一)〜寛永五年(一六二八)。稲葉一鉄(良通)の長男重通の養子。
清水城跡
岐阜県揖斐郡揖斐川町清水(清水小学校内)
清水城平面図
延文元年(1536)林七郎左衛門通兼が清水山に城を
築いた。その二百年後、弘治三年(1557)一鉄(良通)
が、この城を攻め落とし、城の石垣をこわし、ここに平地
の城として、内堀外堀をめぐらし、立派な城を築き、天正
七年より、一鉄、重通、通重の三代、二十八年の居城
であった。
通称は佐渡守。林惣兵衛政秀の次子でありますが、稲葉氏と林氏との間に領地のことで合戦が
あり、和睦の結果、正成が重通の婿となり稲葉と改めました。
十七条城跡
岐阜市瑞穂市十七条
お福の夫となる林正成は1571年この十七城で生ま
れる。
成人すると、大垣・曽根城主稲葉重通の養子となり、
稲葉正成と改名し、1595年お福と結婚する。
十四歳になって小牧・長久手の合戦に初陣し、これより秀吉に仕え、その後の諸合戦に武勇
をあらわします。朝鮮の役では小早川秀秋に属し軍功があり、のち秀吉の命令で秀秋の付家老
となり、五万石を領しました。
関ヶ原の合戦では秀秋を説得して徳川方に内通することを勧め、黒田長政・山岡道阿背弥な
どに石田三成方の動向を伝えたのです。関ヶ原の陣では、戦闘の中途で石田方を裏切った小早
川軍で先頭で奮戦した。正成の背後に妻(後の春日局)の存在が大きかったと言われています。
戦後、その戦いぶりを家康から褒められます。
関ケ原の戦い決戦地
石田三成陣地 徳川家康最後陣地
稲葉正成屋敷跡
安八郡安八町森部・金峯神社
この地は、永禄4年(1561)の森部合戦に織田信長
に味方して手柄をたてた河村久五郎の屋敷跡とい
われています。明治14年(1881)森部小学校誕生、
同41年(1908)から昭和15年(1940)まで森部分教
場として親しまれてきました。南隣の金峯神社の地
は、慶長15年(1610)ころ本郷城主稲葉佐渡守正成
(曽根城主稲葉一鉄の次男・重通の養子)の屋敷跡
で、「下屋敷」という地名の起こりと言われています。
(不破壱岐守が居城したと伝えられる)正成の奥方は、
後に江戸幕府三代将軍徳川家光の乳母「春日局」。
慶長六年(一六〇一)、主君秀秋に対する意見が用いられず、一族とともに本国の美濃(岐阜県)
に帰り、谷口(武儀郡武芸町)に閑居しました。同十二年、家康の直臣となり実家林氏の旧領十七
条(本巣郡巣南町)も含め一万石を領した。これは関ヶ原の合戦での忠節によるとされるが、春日
局との縁故があったからであろう。 のち松平忠昌に付属せられ越後国(新潟県)糸魚川において
一万石、併せて二万石を領しました。同九年、忠昌が越前国(福井県)に移されるとき従わず江戸
に退去し、のち嫡子正勝の領所の常陸国(茨城県)柿岡に身を寄せました。
寛永四年、再び取り立てられ、下野国(栃木県)真岡で二万石を与えられ譜代大名となりました。
春日局と離婚の後は、山内一豊の弟にあたる山内康豊の娘を後妻とする。
(一豊に嗣子ができなかったので、弟・山内康豊の長男・忠義がその養嗣子となり、土佐国高知藩の
第ニ代藩主となる。)
さらに、関ヶ原の戦いの時、西軍に属した稲葉一族見てみたいと思います。
居城名 戦後
稲葉貞通 美濃郡上八幡城主4万石 事前に降伏し、豊後臼杵5万石に転封
稲葉通重 美濃清水城主1万2000石 事前に降伏し、本領安堵
西軍に属した者は、ほとんどが所領没収だが、稲葉一族は転封か、本領安堵です。不思議ですね。
関ヶ原の戦いにて西軍に属し、所領を没収されなかった大名についてここを見てください。
面白いことが見えてくると思います。
以上のことを見ていくと、何か見えざる手により明智一族を通して歴史を大きく変革する意図が込
められているように感じられます。
ここで少し小早川秀秋について見てみたいと思います。
小早川秀秋(1582〜1602)
小早川秀秋は木下定家の子として近江の長浜に生まれる。定家の妹が羽柴秀吉の妻になった
関係から、秀吉夫妻の養子となる。しかし、1594年、秀吉の実子、秀頼の順調な成長などもあって
秀秋は小早川家に養子にだされる。朝鮮の戦いでは総大将をつとめる。
1600年、関ケ原の戦いでは東軍に寝返る。
秀秋の境遇はどのようなものだったのだろうか。
秀秋と毛利の血のつながりはなく、西軍の秀頼・淀君との血のつながりもない。
それに対して、秀秋の実の叔母の北政所(ねね)は徳川家康の保護を受けている。
秀秋は微妙な立場にいたのだ。
その功で50万石となるも、1602年亡くなる。死因にはいろんな説がある。後継ぎがなかったため
小早川家は断絶。
さらに、ねねについて述べてみたいと思います。
ねねの実家の浅野氏の祖は、清和源氏頼光流土岐氏という。明智光秀との関係があるわけです。
信長の妻の濃姫も光秀との関係があることを思うと不思議でなりません。
濃姫にもねねにも、天は子を授けなかった。天の願いはどこにあったのだろうか。
ねねの道(東山区)
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