生駒屋敷(小折城)



江南市

生駒氏は、大和国(奈良県生駒市)藤原忠仁公の
子孫で、生駒山麓谷口村に住んでいましたが、応仁
の頃に戦乱が続いたので、尾張の小折に移り住み
ました。尾張へ移ったのは応仁・文明の頃、前野氏
の祖先、宗安が承久の乱に敗れ、生駒氏に庇護
された旧縁を頼ってきたといわれています。(前野
氏由来記)生駒氏は灰(染物の原料)と油を商う
馬借(運送業)で財を蓄え、大きな勢力をもつよう
になりました。生駒氏3代家宗の娘・吉乃の方(幼
名お類・久庵桂昌)は織田信長の側室となり、信忠・
信雄・五徳の二男一女を生み、織田家に対して
重要な地位を占め、尾北の豪族として小折に城を
構えました。生駒屋敷が、織田・豊臣時代の歴史
的舞台として注目されるようになったのは、この時代
に織田信長や豊臣秀吉の参謀格として働いた
前野氏(吉田氏)の子孫が編纂した「武功夜話」
が世に出たからです。その内容は今までの歴史
的事実を塗り替えるものであり、信長や秀吉が
天下制覇への第一歩を踏み出した地がこの生駒
屋敷でした。秀吉は幼少のころ日吉丸といい、矢作
川の橋の上で蜂須賀小六と出会ったという定説に
対して、弘治元年(1555)生駒屋敷を訪れ、小六の
輩下になります。その時、信長側室「吉乃の方」の
とりなしで、信長の下僕に拾い上げられ、仕官は
この屋敷の二の丸の一隅であったと書いています。
尾張を統一した信長は清州城へ入っていきます。
天文・弘治のころから生駒屋敷に姿をみせ、
土田弥平治未亡人「お類」の美貌に心を引かれ
てしまいます。そのころから二人が逢瀬を楽しんだ
「吉乃御殿」伝承地(龍神社の前方)があります。
また、永禄3年(1560)桶狭間も合戦の奇襲、西
美濃責め戦略はこの地で練られ、蜂須賀小六や
前野小(将)右衛門等によって国々の情報を集め、
戦いの費用は生駒八右衛門家長によって賄わ
れました。永禄6年(1563)小牧山築城に始まる
尾張北部の平定で、秀吉(当時は藤吉郎)も鉄砲
足軽百人組の頭にと頭角を現してきました。信長、
天布武への道はこの屋敷を起点とし、太閤秀吉
の天下人への62年の生涯も、この屋敷の一角
から大阪城へと引き継がれていきました。



広間家の門

江南市布袋町中

広間家はもと、生駒家の典医。この門は生駒屋敷の
中門の移築。欅造りで屋根は起破風にみられる凸形
の曲線形がきれいであり、波をかたどった棟瓦や
波間に龍とおぼしき動物が水煙をはいている鬼瓦
は立派。当時、この門から駕籠が出入りしたといい、
南袖には棒を挿した穴がついており、門の正面の
なまこ壁など、昔日の生駒屋敷の偉容が偲ばれる。



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