池田恒興


勝入塚


愛知郡長久手町武蔵塚

美濃大垣の城主。信長の有力な武将だったが、信長
の死後は、秀吉に味方した。「小牧。長久手の戦い」
では、岡崎攻めを計画。しかし、途中の岩崎城攻め
に時間をとり、家康に追撃の機会を与えてしまって、
現在の仏ヶ根で戦死。古戦場公園内に、その碑
「勝入塚」がある。恒興は、1580年入道し、勝入斎
と名乗る。塚名はこの法名にちなむ。



岐阜県揖斐郡池田町本郷

池田恒興(信輝)、元助の墓
恒興は織田信長と乳兄弟であったので、信長に仕え、
永禄10年(1567)の稲葉山城攻略の戦攻をたてた。
さらに、信長が浅井・朝倉連合軍を破った元亀元年
(1570)の姉川の戦いで戦功を立て、大垣城に住み、
13万石の大名となったが、本能寺の変で信長が
明智光秀に殺された後、豊臣秀吉に味方して山崎
合戦で光秀と戦い、これを亡すために戦功をたてた。
池田恒興は勝入斎といって大垣城主となり、子の元助
が岐阜城主の頃、恒興父子は秀吉に誘われ、尾張の
長久手に出陣し、父子共に戦死を遂げた。時に天正12年
(1584)4月9日であった。法名は信輝、前紀州城守雄岳
宗英禅定門、元助、前紀州顕功英節禅定門、父子の墓
は大垣市林町にあったといわれるが、徳川氏の忌むと
ころとなり、出身地である当町に移され、現在地にある。

尚、恒興の長男は元助であり、次男が輝政である。輝政
は初めて池尻城主となり、大垣・岐阜・三河吉田城主を
経て、慶長5年(1600)姫路城主となる。輝政の次男
忠継が慶長8年(1603)備前国岡山城主となり、その
子孫が現在の岡山池田牧場主池田隆政氏(今上天皇
の姉・厚子妃の夫)である。       (案内板より)




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