池田一族


池田恒興(勝入)

愛知郡長久手町武蔵塚
美濃大垣の城主。信長の有力な武将だったが、信長
の死後は、秀吉に味方した。              
「小牧。長久手の戦い」では、岡崎攻めを計画。  
しかし、途中の岩崎城攻めに時間をとり、家康に追
撃の機会を与えてしまって、現在の仏ヶ根で戦死。
古戦場公園内に、その碑「勝入塚」がある。     
恒興は、1580年入道し、勝入斎と名乗る。塚名はこ
の法名にちなむ。                     





長久手古戦場

愛知郡長久手町武蔵塚

池田元助

愛知郡長久手町武蔵塚
美濃国岐阜城主。恒興の長男。            
父に従って出陣したが父の討死を聞いて、敵中に 
突進し、安藤直次に首をとられた。          
父と同じく古戦場公園内に、碑「庄九郎塚」がある。


岐阜県揖斐郡池田町本郷

池田輝政
池田恒興の次男。織田信長・豊臣秀吉に仕える。
1584年、小牧・長久手の戦いで父・兄が戦死。 
その後、美濃大垣10万石を安堵され、岐阜城移
封を経て、三河吉田15万石余を与えられる。   
1594年には、徳川家康の娘督姫を継室とする。 
関ヶ原では、徳川方にくみし、戦後、播磨52万石
を与えられる。                     


吉田城

豊橋市

吉田城
吉田城の歴史は、永正2年(1505)、今川氏の
被官であった一色城(豊川市牛久保町)城主の
牧野古白により、その前身の今橋城が築かれた
ことに始まる。(明応5年説もある)。
戦国争乱の世の中で、東三河の要であった今橋
城は、今川・武田・松平(徳川)ら戦国武将の
激しい攻防を繰り返す中で、名も今橋から吉田
と改められた。永禄8年(1565)、徳川家康は
今川氏の東三河における最大拠点であった
吉田城を攻略し、ここに酒井忠次をおいた。
天正18年(1590)、家康の関東移封によって、
池田輝政が15万2千石で入城し、城地の拡張
と城下町の整備を行ったが、慶長5年(1600)
関ヶ原合戦の後、播州姫路に所替えとなった。
幕藩期には東海道の要衝として、竹谷松平2代、
深溝松平2代、水野忠清、水野忠善、小笠原4代、
久世重之、牧野2代、大河内松平の松平信祝、
本庄松平の松平資訓、そして再び大河内松平
7代と譜代大名が在城したが輝政によって
拡張されたこの城も、財政的要因のため
完全に整備されないまま明治に至った。




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