井伊直政


井伊直政

JR彦根駅前

井伊直政公像
永禄4年(1561)現在の静岡県井伊谷に生まれ、
幼少の頃から文武両道に励み、慶長5年(1600)
に徳川四天王の一人として天下分け目の合戦で
知られる関ヶ原の戦で功をあげ、石田三成の
居城であった佐和山城を与えられ、18万石の
大名となった。その後、城を現在地の彦根山
に移そうとしたが、同7年(1602)41歳で病没し、
子らが直政の遺志を受け継ぎ20年の歳月を
費やし元和8年(1622)彦根城を完成された。
こうして彦根35万石初代井伊直政は、今日の
彦根市発展の礎を築いたのである。


徳川四天王の一人。                   
1575年、直政が15歳の時、家康に遠州の井伊谷で
ニ千石を授かる。                      
16歳の初陣で大功をたて一万三千石。        
22歳の武田征伐で四万石。               
30歳の時、上野国箕輪城十ニ万石城主となる。   

松平忠吉・井伊直政陣跡
松平忠吉・井伊直政陣跡
岐阜県不破郡関ヶ原町
松平忠吉、徳川家康の四男。妻は井伊直政の娘。


のち関ヶ原の合戦での大功にて、石田三成の居城
佐和山城の城主となって十八万石を授かった。   
彦根に居城した直政は、わずか一年で関ヶ原での
傷が因となり、42歳の若さで一生を終えた。    
 



井伊の赤備え
武田家の赤装束を家康から許され、武勇にも知謀にも
すぐれた井伊直政は、徳川四天王の一人として、常に
徳川軍の先鋒を務めた。                 

              彦根観光協会のパンフ参照

武田氏滅亡後、武田家の旧臣達を配属されたのが
徳川四天王にも数えられる伊井直政である。

井伊の赤備え
彦根藩井伊家では、藩主以下家臣にいたるまで、
甲冑や旗指物を朱色で統一していました。これを
「井伊の赤備え」と呼びます。このルーツは甲斐の
武田氏にあります。徳川家康は、若い井伊直政
を強力な大将とするために、武田の遺臣を中心と
する117名を彼につけ、軍事力の増強を図りました。
さらに、勇猛で知られた武田家の有力武将、
飯富虎昌(おぶとらまさ)らの赤備えにあやかって、
その軍団を赤一色とするように命じたのです。
直政は、武田軍団の象徴を名実ともに受け継ぎ、
徳川家臣団のなかで最強といわれるようになります。
後に直政は、徳川の四天王に一人に数えられました。
彦根城博物館資料より

佐和山城趾

佐和山城趾
滋賀県彦根市

佐和山城は、彦根築城の際に徹底的に
破壊され、石材等は彦根築城に流用される。

彦根城

彦根城

彦根城
滋賀県彦根市
彦根城は直政の子・直孝の時完成する。
     

井伊直弼
井伊直弼
滋賀県彦根市
第13代彦根藩主。                    
1858年、大老に就任。開国を主張し、
日米修好通商条約に調印。
1860年江戸城桜田門外で暗殺される。       

桜田門


龍潭寺



浜松市北区引佐町井伊谷

井伊直政
徳川四天王とうたわれた井伊直政は、永禄4年(1561)
2月9日井伊の庄祝田で名門井伊氏の嫡男(あととり)
として生まれました。2歳の時に父直親が今川氏真の
手により殺され、井伊家は滅亡の危機に立ちます。
8歳の時、直政は龍潭寺南渓和尚の計らいで、三河
鳳来寺に預けられ成長します。15歳になった直政は、
浜松城主徳川家康の家臣となり数々の武勲を立てま
す。天正10年武田勝頼を攻め滅ぼした家康は、旧武田
軍の「赤備」の軍を直政に付けます。天正12年(1584)
小牧・長久手の戦いで、この赤備部隊が活躍し、井伊
の赤鬼と恐れられました。この功で直政は6万石に出世、
井伊家の再興を果たしました。慶長5年、関ヶ原合戦で
は東軍の軍監(監督)を勤め徳川軍を勝利に導き、彦根
18万石城主となり、徳川軍団の筆頭に出世しました。
慶長7年(1602)2月1日、直政は42歳の生涯を閉じました。


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