徳川家光
慶長9年7月17日(1604)江戸城中において生まれる。2代将軍秀忠の長男、
母は浅井氏達子。(家光が生まれる前、秀忠と母との間に長丸という子がいた
が、すでに早世しているため、家光を長男とした。)乳母稲葉阿福(春日局)より
訓育を受け、将軍世子となるについては、局の努力は大なるものがあった。
金華山 禅源寺
愛知県稲沢市稲葉1
1634年徳川家光が上洛の折、宿舎となり、家光の
病が治癒したことを喜んで、表道具に御紋の使用が
許された。(愛知県に住んでいると、家光のゆかりの
場所があまりないのですが。)
ここで、もう少し、家光の母・江与の方と家光の弟・徳川忠長について述べて
いきたいと思う。
家光の母・江与の方
2代将軍秀忠の正夫人。名は達子(徳子)、小督。浅井長政を父、お市の方
(織田信長の妹)を母に、三姉妹の末に生まれた。上は秀吉の側室淀君となり、
中は京極高次の妻となった。
浅井長政像(浅井氏宅址)
愛知県春日井市牛山町(名鉄間内駅前)
小督は、始め織田信雄の家臣・佐治与九郎に嫁ぎ、次いで同じく秀吉の命に
より、秀吉の姉の子秀勝に嫁いだが、秀勝は征韓ノ役で戦病死してしまう。最後
に秀吉の命で縁付いたのが徳川秀忠であった。この時秀忠17歳、小督24歳。
小督は2男5女を生んだ。千姫・珠姫・勝姫・初姫・家光・忠長・和子姫の7人で
ある。(長女千姫は豊臣秀頼に嫁ぐ)寛永3年(1626)死去。享年54歳。
家光の弟・徳川忠長
慶長11年5月7日(1606)生まれ。2代将軍秀忠の2男、母は浅井氏達子。幼名
を国千代、あるいは国松という。秀忠、達子は竹千代(家光)よりも国松を愛し、
衆目のみるところ世継は国松と思われていた.。しかし、家康の裁定により世子は
竹千代(家光)になったのである。
元和6年(1620)8月従四位下参議、左近衛権中将。同9年(1622)7月従三位権
中納言となる。寛永元年(1624)駿府に入り五十五万石を領し、同三年(1626)
従二位権大納言に就任する。
寛永3年(1626)9月、母達子が死に、同年9年(1632)父秀忠が死ぬと。忠長は
所領を没収され、同年10月(1633)、上州高崎に押し込められた。寛永10年12月
6日、自殺。享年28歳。
ここまで、書き進めてきて、不思議な感じがしてならない。
春日局は、斎藤利三の娘である。利三の母は光秀の妹であると伝えられる.。
だから、春日局にとって、光秀は色濃い血縁なおである。
かたや家光は、織田信長の妹(お市の方)の三女の子である。家光の母の一番
上の姉は秀吉の側室淀君にあたる。豊臣秀頼と家光は従兄弟ということになり
ます。しかも、秀頼の妻の千姫は、家光の姉でもある。
なんと難しいことか。
ちなみに、牧田合戦(1525)では、浅井亮政と稲葉通則は戦っている。
稲葉通則と4人の子は戦死。稲葉通則の第三子の孫が春日局、浅井亮政の孫・長政
の子が淀君。そして、家光と秀頼、このように歴史は続いている。
なんと難しいことか。
愛知県津島市(津島神社内)
1598年、豊臣秀吉の発病により 子、秀頼より病気平癒の
祈願の熱意を込めて寄進された建物
豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地
大阪市中央区大阪城
パンフレットにも案内板にも場所の説明はなく、係り
の方に聞きました。
場所は、チケット売り場を正面とすると大阪城のちょ
うど裏側にあるという感じです。
ひっそりと豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地があります。
織田・豊臣の流れを絶とうとする徳川としては、織田の血の流れのある家光は、
今後の争いの火種になるのではないか。
また、明智との色濃い血縁のある春日局が、織田の血の流れのある家光を本当
に愛せたのだろうか。と、思うのである.。私も、40歳を過ぎて思うことは、そう簡単
ではないということである。
こんな説が、頭に浮かぶ。
家光は、家康と春日局との間の子。名前も家康の家と光秀の光をとって家光とす
る。織田・豊臣の流れを絶とうとする徳川・明智の思いのあらわれか。春日局を通し
て、徳川に明智の血が入る。
家光の弟・忠長は、父の2代将軍秀忠の忠と、母の父浅井長政の長をとって期待
をかけて名づける。父秀忠、母達子は竹千代(家光)よりも実子の国松(忠長)を愛
するようになる。・・・・…
でも、なんかこう考える方が、スムーズにいくんですよね。あなたは、どう思いま
すか。
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