伊保西古城址
豊田市保見町
伊保西古城は、標高119mの丘の上に築かれ
ています。築城は室町時代と言われ、城主は定
かではありませんが、三宅氏や織田氏の家臣
の居城であったと伝えられています。
広さ1800uの主郭のほか腰曲輪、虎口など
の遺構がよく残っています。
「伊保」と名のつく城は全部で4つある。
この城の東方200mにある「伊保城」、500m
東方の「伊保東古城」、貝津町にある
「伊保古城」、そしてこの「伊保西古城」
である。これらのうち「伊保城」は、
慶長5年(1600)に築城された近世の城で
あるが、他の3城は、中世の城である。
このように隣接していくつかの城が築かれた
うえ古記録では「伊保城」としか表現されて
いないため、昔からそれぞれの城がかなり
混同されてきたようである。したがって、
伊保西古城の来歴を明らかにすることは
難しいが、地元に残る資料などから当時の
伊保の状況を推測するとおよそ次のようになる。
15世紀後葉から16世紀の初頭にかけて、
この地を支配した三宅氏は、松平氏の侵入に
より広瀬へ退いた。その後しばらくは
松平氏の手中にあった伊保の地であったが、
やがて今川氏の支配が及んだり、松平氏と
織田氏との間で攻防が繰り返され、両者の
間に三尾同盟が結ばれてからは、織田氏の
領地に組み込まれる。天正19年(1591)には
岡崎城主原隠岐守の支配地として検地が行わ
れており、この頃にはすでに伊保西古城も
その役目を終えていたことであろう。城は標高
119mの独立丘陵上に築かれており、広さ約
1800uの主郭や、その回りに配置された
腰曲輪、枡形状の虎口、南側に続く丘陵と
城とを分断する堀切りなどの遺構が比較的
よく残っている。本丸からは北に伸びる瀬戸
街道と西に伸びる飯田街道とを遠くまで望む
ことができこの地が古くから交通の要衝
であったことがうかがわれる。
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