藤川宿


東棒鼻

岡崎市藤川町

「棒鼻」とは、宿場の出はずれ、すなわち出入口のこと
である。東にあるので「東棒鼻」と呼んでいる。藤川宿
に棒鼻が再現されたのは、東海道ルネッサンス活動
の機運が盛り上がった平成元年である。なぜ、棒鼻が
藤川に再建されたかというと、江戸時代の絵師・歌川
広重が東海道五十三次の藤川「棒鼻ノ図」に描いた
からである。最近、明治20年ころ写された写真が見つ
かり、宿囲石垣が写っていたところから、その存在も
認められた。とにかく、現在、藤川宿と言えば「棒鼻」
と言われるぐらい藤川宿の象徴となっている。


藤川宿の「曲手(かねんて)」



地元の人たちは、この辺りを「曲手」と呼んでいる。
曲手とは、直線状に来た道を直角に右に曲がり、また
左へとクランク状に曲がる道をそう呼んだ。別名「桝形」
とも言われている。藤川宿の曲手は慶安元年(1648)
に三河代官が藤川宿の東端に、約500mほどの街道
を造り、地割をして市場村の人々を移転させ、加宿市
場村を設けたときに、その東はずれを意識的に道を曲
げて付けたことによるものと思う。その効用は外敵から
宿場町を守るためとか、道を曲げることによって、街道
の長さをふやしそこに住む人をふやしたとも言われて
いる。この付近、当時、道中記にも書かれて繁盛した
茶屋「かどや佐七」跡が曲がり角にあり、常夜燈(秋葉山灯
篭)、そして東棒鼻などがあり、江戸期の面影を止めている。


藤川宿の高札場跡


「高札」とは、立て札ともいい、法度・掟書・犯罪人
の罪状などを記し、交通の多い市場、辻などに
掲げられた板札をいう。その目的は一般の人たち
に法令を徹底させるためのものであった。藤川宿
の高札場はここの場所にあり、記録によると、
「一、高札場  高 壱丈 長さ 弐間半
           横 壱間」
とあり、規模の大きい、広い場所であった。
ちなみに、当時掲示されていた高札は、八枚
あったようで、大きいものは横238p、縦53p
もあり、もし当時あったものを8枚並べるとす
れば、正面に横二面ずつ、四段に掲げて、常時
掲揚していたのであろうか。現在保存されて
いる高札は6枚あり、いずれも岡崎市文化財に
指定され、三枚は資料館に掲示してある。


問屋場跡


藤川宿の問屋場跡
藤川宿の「問屋場」は、ここ字中町北にあった。
「問屋場」は、宿場町では、最も中心となった
場所で、人馬の継ぎ立て(伝馬)、書状の逓送
(飛脚)などの業務を行う所が、「問屋場」であった。
藤川宿では、ここを「御伝馬所」とも称していた。
また、当初の問屋場は、問屋場役人の屋敷の一部を
使用していたが、江戸時代中頃、現在地に専用の
建物を設けて、業務に当たったという。明治5年7月、
伝馬制廃止後は閉鎖され、その役割は終わった。

藤川宿の脇本陣跡


藤川宿の脇本陣跡
「脇本陣」は、江戸時代「本陣」の補助的な役割
として設けられた宿舎で、「本陣」に空きがない
ときには、本陣に準じて用いられた。
「脇本陣」を営むことができたのは、本陣家に
次ぐ名望家で、江戸時代後期に営んでいたのは
「大西喜太夫」で「橘屋」と呼ばれていた。
入り口の門構えは、一般の家では構えることは
許されず、「本陣」・「脇本陣」だけに許された。
藤川宿はそれまで度重なる大火に見舞われているので、
現在残っているのは藤川宿内では古い遺構である。
明治になって宿場の制度が廃止となり、
その後、藤川村役場として使われ、現在は「藤川
宿資料館」となっている。この敷地は、
昭和53年10月に岡崎市の文化財に指定された。



本陣


藤川宿の本陣跡
藤川宿の「本陣」は字中町北にあり、藤川宿の中心
地で、「本陣」とは、江戸時代、公家や諸大名などの
貴人が使用した宿舎で、宿場町の公認の休泊所で
あった。藤川宿の「本陣」は、もともと二軒であったが、
退転(落ちぶれること)を繰り返し、江戸時代後期には
「森川久左衛門」が勤めていた。当時の本陣の規模は、
「本陣 凡建坪 百九十四坪   字中町
      門構・玄関付  壱軒」
で、昔の面影はないが、北側の石垣は今でも当時の様
子を残している。そのその「本陣家」は、宿場町の大旅
籠屋で、建物は、門・玄関・上段の間を設けることが
でき、当主は名主・宿役人などを兼帯し、苗字帯刀を許
されていた。現在、土地や建物を森川家から借り受け、
「藤川宿第二資料館」として利用している。


本陣石垣


藤川宿の一里塚


藤川宿の一里塚
「一里塚」は、街道の一里ごとに土を盛り上げ、
樹木を植えて、道しるべとした塚のことである。
慶長9年(1604)、江戸幕府は諸街道の整備の
一つとして、江戸日本橋を起点として、一里
ごとに道の両側に塚わ築いて樹木を植えて目印
とした。樹木は、普通榎だった。
藤川の一里塚は、当時は街道の左右に塚を作り、
榎が植えてあったらしいが、天保年間(1830〜)
頃には南側はすでになくなり、北側の榎は
昭和初期には枯れてなくなってしまった。


芭蕉句碑


「芭蕉句碑」は、江戸時代の俳人、松尾芭蕉
が詠んだ句を石に刻んで建てられたものである。
 爰も三河 むらさき麦の
       かきつはた   はせを

西棒鼻


吉良道道標


吉良道道標
東海道は、藤川宿の西端で、南西の方向に分かれて、
土呂(現・岡崎市福岡町)、西尾(現・西尾市)、吉良(現・
幡豆郡吉良町)方面へ出る道がある。この道を「吉良道」
と呼んでいて、その分岐点に「吉良道道しるべ」が立っ
ている。とにかく、江戸時代、参勤交代の行列、助郷勤
めの出役、さらには海産物の搬入路など重要な脇街道で
あった。また、伝説に茶壷道中の行列はここを通ると、
雨が降るという「茶壷のなみだ雨」の話も残っている。

藤川のまつ並木


慶長9年(1604)江戸幕府は、街道を整備し、東海道
の両脇に松を植えた。この松並木はその名残をとどめ
るもので、現在は藤川町の西端約1qの間の90本
あまりからなり、クロマツが植えられている。
松並木は旅人には夏の木陰を提供し、冬は防風林と
ななった。松並木の東につづく藤川宿は、東海道の
37番目の宿場である。

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