古田織部



岐阜県本巣市文殊

古田織部生誕の地
「文殊の森の聳える山口城」
古田織部正重然は、天文13年(1544)山口城主
古田重定の子として美濃国山口に生れた。幼少
のころ、根尾川に遊び、権現山や大平山に登り
豊かな自然の中で育ち、文武にわたり教育を
うけた。永禄10年(1567)織田信長が美濃を
制圧したとき、織部は24歳であった。翌年信長
の上洛に従った。織部は武人として、信長・秀
吉・家康の三英傑に仕え、至難な折衝を成功
させたり、大小合戦に出陣して戦功をたて、のち
山城国西ヶ岡3万5千石の大名となった。

しかし、織部の真骨頂は武人としてよりも
むしろ中年期以後嗣子山城守重ししに城主
を譲ってからの茶人・陶人としての活躍ぶりで
あって、その天分豊かな才能は、わが国茶道界
陶業界に不滅の偉業をのこした。即ち、茶人
としての織部は千利休に勝る創意工夫をもって
独得の茶道を確立し、2代将軍秀忠の茶道指南
となった。また、陶人としての織部は、極めて斬新
な意匠・造形を指導し、日本の古陶として世界的
名器を数多く残した。古田織部の最後は悲劇的
結末をとげているが、安土・桃山時代の茶の文化
また織部焼は、今なお脈々と受け継がれている。









天王坊後園跡

名古屋市中区丸の内

古田織部が作った庭や茶室があったとされる。

竹茶杓 銘 泪 千利休作
この茶杓は、豊臣秀吉に切腹を命じらた利休が
自ら削り最後の茶会に用い古田織部に与えた
ものである。その後、織部はこの茶杓用に長方形
の窓をあけた筒をつくり、その窓を通してこの
茶杓を位牌代わりに拝んだとと伝えられる。

この茶杓は、毎年2月28日(利休忌)近くに、
徳川美術館で約10日間公開されている。

徳川美術館

名古屋市東区徳川町


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