福島正則
福島正則生誕地
愛知県海部郡美和町二ツ寺
菊泉院
愛知県海部郡美和町二ツ寺
記念碑
福島正則
福島正則は、母が秀吉の母の妹。1561年、
この地に生れる。賎ヶ岳七本槍の一番手。
福島正則公画像
美和町歴史民俗資料館
美和町歴史民俗資料館
瑞祥山菊泉院所蔵(江戸初期〜中期初頭か)。
この画像は正則公の菩提寺菊泉院に伝わる
もので、毎年命日にあたる7月13日のみ
本堂において公開供養されている。
七本槍の勇士
滋賀県伊香郡木之本町
関ヶ原の戦いで東軍に属する。
福島正則陣跡
岐阜県不破郡関ヶ原町
北市場美濃路公園
愛知県稲沢市北市場町
美濃路の由来
美濃路は、天正年間(今から約400年前)織田信雄
が幅五間(9m)の道路に改修させたのが始まりで、
東海道と中山道を結ぶ重要な脇街道であった。
宮の宿(熱田)で東海道と分かれて、名古屋・清須
(清洲町)を経て北市場地内を通り、稲葉・起・墨俣・
大垣の各宿を経由して垂井宿で中山道と合流する。
その里程は14里24町15間(57.6km)といわれた。
この道は、慶長5年(1600)の関ヶ原の役にも重要な
役割を果たした。即ち東軍の先鋒として福島正則が
この道を西に進み、さらに勝利をおさめた徳川家康が
この道を通って凱旋した。家康凱旋路・天下一統に
因み、江戸時代にはこの道を吉例街道と呼び、江戸・
京都間の往来に盛んに利用された。
福島正則家紋「中貫十文字」
名古屋市・堀川の納屋橋欄干の中央
福島正則は治水工事にも長けていた。
1610正則、名古屋城普請にあたり堀川を築く。
名古屋城下堀川を築いたことは有名である。
納屋橋
福島正則公は、永禄4年(1561)に現在の愛知県あま市で、 大工の息子として生まれた。
若くして豊臣秀吉公に仕え、賤ヶ岳の戦いで手柄(七本槍の筆頭)をたて、
出世の端緒をつかんでいる。 加藤清正公ともに秀吉公の子飼の武将として活躍し、
35歳で24万石の清須城の城主となった。 関ケ原の合戦では東軍に加わり、
40歳で広島などを領有する50万石の 大名まで出世し、慶長15年(1610)の
名古屋築城の時を同じくして、 正則公により堀川が開削された。 しかし、水害に遭った
広島城を勝手に修繕したという口実で、元和5年(1619)に4万5千石の 高井野藩主
(現:長野県高山村)に改易され、 失意のなか寛永元年(1624)に64歳で亡くなった。
正則公が開削した堀川は、城下への幹線輸送路や身近な憩いの水辺として人々
の暮らしを支え、 明治になると沿川には多くの工場や製材所ができ、 行き来する艀や筏が
工業都市名古屋を支えてきた。 このため堀川は「名古屋の母なる川 堀川」と言われている。
しかし、昭和30年代(1955〜64)からトラックが普及して静かな水面となり、
今は都心の貴重な憩いの水辺として親しまれている。
堀川堀留跡の碑
名古屋市西区城西
安芸・備後で49万石を授けられるが、1619年
安芸広島城修築をとがめられ、所領没収。
妙勝寺
愛知県海部郡甚目寺町
妙勝寺には、福島正則が清洲城の長家一棟
を寄進したといわれる豪壮な庫裡がある。
堀田家住宅
津島市南門前町1
堀田理右衛門家は、津島牛頭天王社(現津島神社)
の神官番頭大夫之定の次男之理(1573-1668)を
初代とする。之理は福島正則(1561-1624)が清洲
在城中、中小姓として仕えましたが、正則の芸州(
現広島県)へ領地替の際、故郷津島へ戻りました。
この堀田家住宅は、江戸時代の中期、正徳年間
(1711-1716)に建てられたと伝えられています。
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