細川藤孝
細川藤孝は、1534年に生まれる。
三淵晴員の次男であるが、後に三管領のひとつ細川氏の養子となる。
細川氏は、室町幕府で三管領のひとつ。(あとは、斯波・畠山)
管領とは、将軍を補佐して政治全般をとりしまる役職である。
立政寺
岐阜市西荘3
正法軒跡
立政寺内
1567年7月27日立政寺にて、信長は初めて足利義昭と会見する。
この仲介をしたのが明智光秀と細川藤孝とみられる。
土岐氏は、室町幕府で主に美濃国の守護であった。
守護とは、諸国の治安維持や武士の統制のための地方官である。
1578年明智光秀の娘(玉子)と細川藤孝の嫡男忠興と結婚。
細川忠興とガラシャの像
勝竜寺城公園内
康暦の政変
康暦元年(1379)、土岐頼康・京極高秀ら反細川派、すなわち親斯波派
に諸将は花御所を囲んで将軍足利義満に細川頼之の追放を迫った。
義満がこれに同意したため細川頼之は四国に下り、斯波義将が管領に
就任した。これが、康暦の政変である。
1390年、足利義満、美濃守護土岐康行を討つ(土岐氏の乱)
1391年、細川頼之は、足利義満に召還され、再び幕政に参与した。
約二百年前、細川氏と土岐氏はこのような関係であった。
旧本能寺
京都市中京区元本能寺南町
1582年6月2日、明智光秀は、織田信長を京都の本能寺で自刃に追い込む(本
能寺の変)。
細川藤孝は、光秀の再三の要請を断り信長の死を慎んで剃髪しれ幽斎と号し家督を
嫡男・細川忠興に譲って羽柴秀吉に属した。
細川幽斎は、当代有数の教養人で弓馬故実を武田信豊から、古今伝授を三条西実枝
から受け、中世歌学を近世に伝えた。
藤孝の墓
京都市北区紫野大徳寺町(高桐院)
細川藤孝は、どうして光秀と縁を切って出家してしまったのだろうか。
細川氏は、室町幕府で三管領のひとつ。
土岐氏は、室町幕府で主に美濃国の守護であった。
康暦の政変・土岐氏の乱というようなことが影響したのではないかと最近は思っています。
なお、細川氏は愛知県岡崎市細川町から生まれたとされるが、徳川家康の先祖である
松平氏の発祥の地(愛知県豊田市松平町字赤原)とは、10kmと離れていない。
細川護熙氏墓参記念碑
平成7年(1995)10月28日
愛知県岡崎市細川町・蓮生院
愛知県岡崎市細川町・蓮生院
細川忠興・ガラシャ夫妻の先祖の墓
細川氏と松平氏とのこの距離は歴史にどのような影響を及ぼしていたのだろうか。
隣松寺
細川家初代義季
二代俊氏
三代公頼
隣松寺
豊田市幸町隣松寺
今後さらに考えていきたいと思います。
田辺城
舞鶴市字南田辺15-22
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