細川忠興

細川忠興とガラシャの像
細川忠興とガラシャの像
勝竜寺城公園内

1600年、忠興出陣中、石田三成が、大阪城中に
 人質にしようとしたが、ガラシャ夫人は聞き入れず、
三成に取り囲まれ、ぜひもなく家来に首を打たせ
屋敷に火を放ちいさぎよく火中に果てる。    
この越中井はその屋敷の台所にあったと古くから
伝えられている。大阪城からは数百mの所にある。

関ヶ原の戦いの前、細川忠興は、家康の誤解を
解くため息子の忠利を人質としで江戸に送っている。

越中井
越中井
大阪市中央区玉造

 ガラシャの最期は切支丹殉教の栄光とも思えるが、華のように
パッと咲き散った父明智光秀の最期を知った以後、ガラシャ自ら
もその゛時゛を求め続けていたのでしょうか。

散りぬべき時知りてこそ世の中の
                花も花なれ人も人なれ

という辞世の歌がそのことをもの語っているように思えるのです。

  
この句は、旧熊本藩主細川家18代の末裔にあたる細川護熙首相が1994年4月
 佐川急便グループからの1億円の資金流入問題に端を発し国会が空転した
責任を取る形で首相退陣した時引用した事でも知られる。
        

 小笠原少斎に胸を突かせた壮絶な死は、かえって三成方に
衝撃を与え、以後、人質作戦を取り止めさせることになる。


 こうしたガラシャの犠牲によって、忠興はじめ徳川軍は
後顧の憂いなく戦いを進め、関ヶ原の戦いに大勝をお
さめることができた。後年、徳川八代将軍はこのことを、
「徳川家あるのは関ヶ原の一戦にあり。その勝利は
明智氏(ガラシャ)の義死にあずかっている」と明言。
 細川家においても、ガラシャの死はお家安泰の礎石
として称えられ、熊本にある細川家の菩提寺
泰勝寺では、領主並みに篤くまつられている。




 隣松寺

細川家初代義季
二代俊氏
三代公頼

 隣松寺

豊田市幸町隣松寺

細川忠興陣跡

関ヶ原町

細川忠興は、五千余の兵を率いてこの付近に布陣し、
黒田長政らとともに笹尾山の石田三成と激しく戦いました。
本戦前には西軍により、正室、・玉子(ガラシャ)が自害
に追い込まれ、父幽斎の丹後田辺城を攻囲されるたど、
その胸中は特に複雑ですあったとお思われます


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