堀秀政


堀秀政生誕の地

岐阜市茜部本郷

堀秀政生
美濃生まれ。
美濃斎藤家に仕え、ついで織田信長に臣属。

堀秀政陣地跡

滋賀県東浅井郡虎姫町


1578年頃には、近江長浜に居城。
1582年、豊臣秀吉の毛利攻めに加わる。
本能寺の変後は豊臣秀吉に仕える。
賤ヶ岳の戦いに功をあげ、近江佐和山城9万石。
佐和山城趾

滋賀県彦根市

さらに、越前北ノ庄城18万石を領する。
1590年、小田原征伐に従軍するが、
早川口の陣中で病死。享年38歳。

堀秀政生誕の地

岐阜市茜部本郷

鐘・鐘楼

京都市北区紫野大徳寺町・総見院

鐘楼は創建当時のもので、鐘・鐘楼ともに
重文。信長公の家臣、堀久太郎秀政の寄進
によるもの。鐘の銘文は開祖、古渓和尚の作。

堀久太郎秀政本陣地跡



愛知郡長久手町

この本陣地跡は、天正12年(1584)小牧・長久手の
戦いの折、秀吉方の武将堀秀政が桧ヶ根の戦闘で
本陣を布いた所です。堀秀政(1553〜90)は始め美
濃の斉藤氏の家人でしたが、後に信長に仕え、信長
の死後は、秀吉に属して戦い、山崎や賤ヶ岳の戦い
の戦功によって秀吉から佐和山城9万石を与えられ
ました。小牧・長久手の戦いでは、秀吉方の軍監(い
くさめつけ)として進軍し、桧ヶ根の戦闘で榊原康政・
大須賀康高ら家康方の追撃隊を撃ち破りました。
当時の桧ヶ根は標高81.2m、頂上に立てば北から
進軍して来る家康軍と、南に先行する味方の池田・
森隊の両軍が同時に見渡せる恰好の場所でした。



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