本能寺の変
ドラマでの演出では、深夜の襲撃のように感じますが、
旧本能寺
京都市中京区元本能寺南町
歴史を歩く
新説「真犯人は高野山か!?」山本音也
日の出については、東京に戻って理科年表を調べた。
往時の6月2日を現在の6月10日から20日とする、
4時42分から43分である。
(中略)
とすると、4時10分から20分ほどの刻限か。
光秀の軍旗「水色桔梗」が水壕の手前に
ずらりと並んだ。
激震織田信長P74
水色桔梗をひるがえした総勢は1万3000人ほどで
あったといわれる。
信長を歩く 宇田川武久 プレジデント社
光秀は京都に入ると、すぐに本能寺を包囲して、
ただちに攻撃を加えた。すでに時刻は、午前6時
近くになっていた。
私の織田信長 小野澤知之
<本能寺の変>
光秀軍が老イ坂で反転して(ここで信長打倒を
表明する)謀反を起こし、午前4時頃に
信長の宿所本能寺を急襲する。
明智光秀のすべて 二木謙一編
ドキュメント 本能寺の変 下山治久
盛夏の6月2日は4時にはすでに白々と夜が
明けている。鬨(とき)の声をあげながら
一万の明智軍は本能寺に奇襲をかけた。
俊英明智光秀 学研
本能寺襲撃
洛中に侵入した明智軍は信長が宿泊する
本能寺を完全に包囲した。
6月2日の卯の刻(午前6時頃)であった
(言経卿記)。旧暦の6月といえば、現代の
暦では7月にあたる。
午前6時頃にもなれば、明智の軍旗「水色
桔梗」が、目にも鮮やかに映えるほどに明るく
なっていた筈である。
本懐と落魄
光秀天変の29日 文:平野明夫
山科言経は、卯の刻(午前5時ごろから同7時ごろ)
に光秀が本能寺へ押し寄せ「即時に」信長が討死
したと記している。30分もかからなかったことであろう。
今の7月初旬の日の出は、4時40分から50分頃。
甲冑を着け、弓、鉄砲、槍を携えた集団が約1万人。
ドラマでの演出では、深夜の襲撃のように感じるが、
7月初旬の4時頃の襲撃に、なぜ信長は気づかなかったのか。
約1万人もの襲撃に本能寺の人は、なぜ気づかなかったのか。
ひょっとすると信長は、気づくことが出来なかったのではないか。
天正10年6月2日は、1582年6月21日
2007年6月21日の京都の日の出は
午前4時43分です。
2007年の旧6月2日は、7月15日です。
7月15日の京都の日の出は
午前4時54分です。
ちなみに2007年6月3日午前4時に起きてみました。
日の出時間は新聞によると4時39分。
4時過ぎると、随分明るくなり、
夜というイメージは全くありませんでした。
戦国の時代、
電気がなく、時計がない
本能寺の人達はどのような生活をしていたのだろうか。
この襲撃時間だったら、起きている時間ではないだろうか。
なぜ1万を越える武装した集団に気づけなかったのだろうか。
大江戸生活体験事情
石川英輔・田中優子著(講談社)より
今われわれが使っているこよみはグレゴリオ暦だが、
江戸時代まで正確にいうならば、明治5年(1872)
12月2日までは、いわゆる旧暦を使っていた。
明六ツのの鐘とともに起きて顔でも洗っていれば、
夜明けになっていたはずだ。
明六ツは日の出のほぼ36分前。
(厳密にいうならば季節によってやや違う)
街道の様子を描いた浮世絵を見ると江戸時代
の旅人は、夜が明ける前には宿を出発した。
電気、時計がない時代なので、
江戸時代の生活様式と
よく似ているのではないでしょうか。
旧暦6月2日の4時過ぎは、
大半の人が起きている時間かもしれない。
そして、本能寺の鐘は鳴ったのだろうか。
約1万人もの襲撃に本能寺の人は、
なぜ気づかなかったのか。
さらに!
読売新聞 平成19年8月8日より
戦国武将、織田信長が明智光秀に討たれた
「本能寺の変」(1582年)で焼けたとみられる
大量の瓦や、寺の堀跡、石垣などが
京都市中京区の旧本能寺跡で見つかった。
中略
堀跡は幅約6メートル、深さ約1メートル。
一部には長さ約2メートルにわたる強固な
石垣跡も出土した。
中略
今谷明・国際日本文化研究センター教授
(日本中世史)は「信長が無防備な状態で
襲われたという本能寺の変を覆す発見だ」
と話している。
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