本能寺の変前夜


本能寺・宝物殿

京都市中京区

「三足の蛙は」、本能寺の変の前夜、信長公に危険を
知らせるこのごとく突然なきはじめたとつたえられている。


本能寺の変前夜、織田信長は本能寺で来訪していた
公家衆が帰った後、本因坊と鹿塩利賢という当時きって
の打ち手の一局を観戦した。熱戦は深夜にまで及んだ。
結局、珍しい三劫となって引き分けとなる。本因坊はめった
に出ない三劫に不思議がりながら本能寺を去ったという。
後日、この棋譜は「本能寺三劫の碁」として残された。
囲碁界では三劫は不吉なものとされるようになった。

大柊と首塚の由来
この大柊は天正10年6月2日、
京都本能寺の変に討死した織田信長の首を
囲碁の名人と言われた本因坊日海の指示に
より、原志摩守宗安が信長と共に自刃した
父胤重と兄孫八郎清安の首と共に炎上する
本能寺より持ち出し、信長の首をここ駿河
の当山に納め首塚を築き柊を植えたものです。
百八代後水尾天皇の御息女、常子内親王の
厚い帰依を得られた当山中興の祖、十八代
日順上人は、原家の御出身であられ御自筆の
内過去帳に本因坊日海、織田信長の法号
を記し手厚く御回向されておりました。

西山本門寺

静岡県富士郡芝川町西山



下馬札に由緒ある寺院
富士山西山本門寺入口
(織田信長の首塚)伝
当山は、康永3年(1344)に日代上人が開創。
朝廷より下馬札を許された由緒ある寺院である。
境内には、天正10年(1582)に京都本能寺
の変で討ち死にした織田信長の首塚があります。









大柊と首塚の由来
この大柊は天正10年6月2日、
京都本能寺の変に討死した織田信長の首を
囲碁の名人と言われた本因坊日海の指示に
より、原志摩守宗安が信長と共に自刃した
父胤重と兄孫八郎清安の首と共に炎上する
本能寺より持ち出し、信長の首をここ駿河
の当山に納め首塚を築き柊を植えたものです。
百八代後水尾天皇の御息女、常子内親王の
厚い帰依を得られた当山中興の祖、十八代
日順上人は、原家の御出身であられ御自筆の
内過去帳に本因坊日海、織田信長の法号
を記し手厚く御回向されておりました。







信長公首塚大柊二代目



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