本能寺
京都市中京区寺町御池下ル
地方にも布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、
瀬戸内沿岸諸国さらに種子島(日典寺)まで公布した。
1543年、ポルトガル人、種子島に漂着し鉄砲を伝える。
島津氏の家臣で種子島の領主・種子島時尭は、鉄砲
の威力を見て、即座の2000両の大金を支払って二挺の
鉄砲を購入。その後、日本製の鉄砲を造ることに成功。
島津義久夫人の石塔(一番奥)上段
島津義久夫人の石塔(一番奥)上段 島津義久は戦国
末期の島津家の当主で、薩摩・大隅・日向を領し、
北進して一時期は、ほとんど九州全域を制したが、
天正15年(1587)豊臣秀吉の征伐をうけて敗れ、
入道して龍伯と号し、秀吉に臣従した。石塔に刻ま
れた「円信院殿妙蓮幽儀」は夫人の戒名、また死
去の日は石塔左側面の刻銘で元亀3年(1572)
12月23日であることが知られる。当時の義久の権勢
を偲ばせて、この石塔はいかにも雄壮・華麗である。
しかも、種子島時尭と島津貴久の妹の間にできた
娘・妙蓮夫人の墓と供養等は、京都の本能寺と
鹿児島福昌寺跡、国分遠樹寺跡にある。
信長公廟
変戦没者合祀墓
京都市中京区
そして、二十数年後、本能寺の変戦没者合祀墓
に同姓の名簿を見つけました。そんなに多くない
苗字であり、代々、織田信長の出生地のひとつで
ある勝幡城から数キロの所に住んでいることを
思うと、今までの歩みは、ここに達するための
ものではなかったのかと思わされたのです。
現在の本能寺。事変後、秀吉により移転させられた。
秀吉には、移転するだけの訳があったのだろうか。
旧本能寺
京都市中京区元本能寺南町
読売新聞 平成19年8月8日より
戦国武将、織田信長が明智光秀に討たれた
「本能寺の変」(1582年)で焼けたとみられる
大量の瓦や、寺の堀跡、石垣などが
京都市中京区の旧本能寺跡で見つかった。
中略
堀跡は幅約6メートル、深さ約1メートル。
一部には長さ約2メートルにわたる強固な
石垣跡も出土した。
中略
今谷明・国際日本文化研究センター教授
(日本中世史)は「信長が無防備な状態で
襲われたという本能寺の変を覆す発見だ」
と話している。
現在は、こんなにきれいになっています。
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