本能寺の変


 光秀が信長を襲撃した動機について、過去幾多の説がありました。中でも有名なの
が野望説であります。この根拠の一つになっているのが、光秀が愛宕神社で作った句
にあります。
 光秀は本能寺に信長を襲う前、愛宕山に参詣して戦勝祈願を行い、この時、連歌会
を催した。世に有名な愛宕百韻です。光秀は発句で「時は今 天が下しる 五月哉」と
詠みます。この解釈について「時」は「土岐」に通じること。すなわち土岐氏出身の明智
光秀が「天が下しる」ということは、「天下を知行する」という意味になり「今、まさに土岐
氏出身の明智光秀が天下を支配することになる五月という季節である」という解釈にな
ります。要するに光秀は天下を望んでいたという事になります。
 最近では、「時は今」は中国の古典『三国志』の故事である「危急存亡の秋」の意で、
「あめが下しる」は「天が下界のすべてを見ている」とし、「今こそ天下危急の折、先のこと
も天がすべて見ているこの五月だ」という解釈もある。この解釈だと信長の野望を危険視
する光秀の思いが込められている。

 そして、この句が、娘であるガラシャに受け継がれたような気がします。


         
             
旧本能寺(京都市中京区元本能寺南町)

 ここで少し愛宕神社について述べて行きたいと思います。

 所在地  京都市右京区嵯峨愛宕1
 アクセス 京都駅から清滝まで京都バスで約1時間
        山麓の清滝から登山約2時間(4km)
  光秀が詣でた愛宕神社は、全国800余社ある愛宕神社の総本山
 標高924メートル、愛宕山の頂上、山城と丹波の国境の地点にある。
 京都市街の眺めが素晴らしい。

                   愛宕神社

         

         
                
  京都市右京区嵯峨愛宕1

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光秀が詣でた愛宕神社は、ただ近所にある神社ではないのです。
 山麓の清滝からでも約2時間の登山が必要になるのです。
 深刻な思いを胸にいだき、一歩一歩、自分の決意を固めるように登り
 つめたのでしょうか。

 皆さん、本能寺の変を前にした50半ばの光秀が、標高924メートル、
 愛宕山の頂上
にある愛宕神社を詣でたことを、どうか心に留めて
 いただきたいのです。

 光秀の願いは天に届いたのだろうか。

 
ぜひ、明智光秀フォトアルバム3もご覧ください。

 
光秀は天正10年(1582年)6月2日、織田信長を京都の本能寺で自刃に追い込み(本
能寺の変)、その11日後の6月13日、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と京都の山崎で戦い、
敗走の途中、京都小栗栖で農民に殺されたとされています。その後京粟田口で、光秀の
遺体は磔にされます。この粟田口が斎藤利三の遺子お福(後の春日局)とつながってい
きます。これが世に言う「三日天下」「反逆の武将」として知られるようになりました。


         
           
信長公廊(現本能寺内、京都市中京区下本能寺前町

 
謀反の真相
 天正十年六月、本能寺へ向かう光秀の胸中にあったものは。光秀はなぜ本能寺の変
起こしたのか。信長への怨恨、天下への野望、秀吉に自分の座を脅かされる危機感・…。
その動機については、諸説入り乱れているが、私の感じる所を述べていきたいと思いま
す。

                      
亀山城
          
                   
 京都府亀岡市荒塚町
              1582年6月1日夜、亀山城を出陣した。
          現在の亀山城趾は宗教法人「大本」の境内地になって
          いるので、この写真の撮影場所より先は聖地のため、
          上には行くことはできませんでした。

 私は、光秀の心の中に、天下への野望・信長への恨みがあったにせよ、この謀反は、
信長という個性があったが故の結末ではないかと思っています。もし、光秀が本能寺を襲
撃しなかったとしても、他の誰かが謀反を行ったのではないかと考えています。天は光秀
を選び、光秀もそれに応え、歴史は動いた。歴史は、明智一族を通して天の願う方向へと
進んでいったのではないかと。以下この点もふまえて読み進んでいただければ、幸いです。
 本能寺の変は、人々によほど唐突に思われてきたのだろう。昔から「なるほど」とうな
ずける説から奇想天外な珍説まで。光秀が何人いても身が持たないぐらいの様々な議論
が行われてきた。ここではその代表的な通説を見ていくことにする。

怨恨説
 信長に個人的な恨みを抱いていたから殺害したという説。これが一番知られている話だ
ろう。武田討伐が終わって徳川家康が安土に来たとき、信長が接待役の光秀に手落ちが
あったと、接待用の膳を湖水に捨て、さんざん打ち据えたというのである。

野望説
 信長が天下を望んだように、光秀も天下をねらっていたという説。光秀も戦国の武将なら、
これもありそうなことだ。江戸時代の人,新井白石もこの説。あるとき、光秀が家臣に「自分
にはの望みがある。それがかなったときは、大国はやれないが小国をひとつやろう」と言った。
だから光秀は早くから謀反を計画していたのだろう、というわけだ。

絶望説
 中国出陣のとき、信長は光秀の領国丹波と近江を召し上げて、敵地のまっただ中、毛利の
出雲・石見(島根県)を与えた。これでは光秀とその配下の武将は住む場所もない。荒木村
重や佐久間信盛のように自分も滅ぶのではと恐れるとともに、恐怖に駆られて犯行に及んだ
という説。

部門の意地説
 四国攻めの際、その司令官に信長は3男信孝を任命した。攻める相手は、長年光秀が交渉
してきた長宗我部元親。当然、自分が司令官になるものと思っていた光秀のプライドはいたく
傷ついた。中国に出陣すれば、ライバル秀吉の下風に立つことになる。そのために謀反を企て
たという。

             
                 
豊臣秀吉像・名古屋市中村区中村町(常泉寺)

 豊臣秀吉フォトアルバムもご覧下さい。

黒幕説
 黒幕説では、足利義昭、羽柴秀吉、徳川家康らの名前が登場する。
例えば、家康黒幕説
 家康には長男信康を切腹させられた恨みがある。また、同盟者であるはずが家臣のように
扱われ、武田が滅亡しても信長から与えられたには1国のみ。将来に不安を覚えた家康は、
同じような境遇の光秀と結び、信長を殺害させたという。

茶屋四郎次郎は、
江戸時代の京都の豪商。幕府、御三家の御用呉服商。
朱印船貿易に従事した。姓は中島、代々四郎次郎を称す。
初代清延、2代清忠、3代清次。清延は徳川家康の伊賀越えに協力したことで知られる。
清延は本能寺の筆頭檀家であったと本能寺・宝物殿の受付の方に教えていただいた。

黒幕説秀吉
織田信長の三男三七郎信孝、羽柴秀吉と再度の戦いに敗れ、天正11年5月2日安養院に於て
自刃せしめられた。
                 
             
                愛知県知多郡美浜町大字野間・安養院

辞世の一首
       むかしより主をうつみの
           野間なれば報をまてや
                羽柴ちくぜん
この主が織田信長のことならば、信孝は秀吉の何かを知っていたのではないだろうか。

共同謀議説
 この説は、朝廷内の数人の公家と光秀が共謀し信長を葬り去った、そして彼等の謀議に正
親町天皇の子誠仁親王も加わっていた、というものである。 信長は正親町天皇に譲位をせま
り、次期天皇と目されている子どもの誠仁親王に即位させようとしていた。理由は簡単だ。傀儡
天皇をつくりあげようとしていたのだ。信長の危険な動きに危機感を覚えた公家たちは、朝廷と
一緒になってストップをかけようとしたのである。


             
                  
明智光秀首塚(京都市東山区三条白川橋)

高野山説
 高野山は全山焼き討ち直前だったが、本能寺の変によりまぬがれた。
 なお、高野山・奥の院には、織田信長と明智光秀の墓がともにある。

                              歴史読本・歴史を歩くVol.1参照
朝廷陰謀説
朝廷が光秀に謀反をしかけ、巧妙に光秀を繰り、実行犯にしたてた。


これまで光秀、信長のゆかりの地を訪ねてきた者として、今、感じるのは、
朝廷陰謀説が有力ではないかなと思っています。
しかも、信長は光秀が本能寺を襲撃する前に、すでに死んでいたのではないか
と感じています。

いろいろと訪ね求めるなかで、変わっていくと思いますが、整理してみたいと思います。
感じていることなので、小さな字で書きますね。


@光秀の本能寺の変後の行動に迷いが生じているのは、光秀が、立場ある者に
自分が主殺しの実行犯にしたてられたと分かった為ではないか。


A徳川家康のブレーンの天海が、光秀か明智の一族の者ではないかと思っている私
としては、なぜ、細川家が徳川政権下でも立場を確立することが出来たかということが
不思議でなりませんでした。
それは、光秀と手を切ってもやむなしとされる理由があったと思わざるを得ない。
立場ある者に主殺しの実行犯にしたてられた光秀に、細川家は与することが出来な
かったのではないかと。

B徳川家康は、本能寺とのつながりの深い茶屋四郎次郎の導きにより急遽京を
離れている。光秀とのかかわりを避けたのではないか。

C豊臣秀吉が関白になれたのは、秀吉が、「朝廷が光秀に謀反をしかけ、巧妙に
光秀を繰り、実行犯にしたてた。」ということを知っていたからではないか。
さらに、不思議なのは、秀吉の朝鮮出兵が、なぜ長きにわたって行われたかである。
これも秀吉が、「朝廷が光秀に謀反をしかけ、巧妙に光秀を繰り、実行犯にしたてた。」
ということを知っていたから、止めることが出来なかったのではないか。


あくまでも、今、感じていることなので宜しくお願いします。



 さらに、本能寺跡に行ったことのある方は、分かると思いますが、本能寺は、二条城・内裏と
目と鼻の先なのです。徒歩で数分の所にあるのです。どうして信長が本能寺に宿泊した
のかが疑問でなりません。このことについて述べていきたいと思います。


             
               
写真の現二条城は当時の場所とほんの少し違います。





                  






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