本多忠勝・本多忠高


                          本多忠勝陣跡
                      本多忠勝陣跡
                               
岐阜県不破郡関ヶ原町

                      1600年9月15日軍監として徳川家康を守り、関ヶ原
                      の中央に進出。
                      生駒・金森・古田・織田の諸隊が備える背後にある
                      家康の本陣(桃配山)を背にして麾下の隊を指揮した。
                      福島・黒田隊など先陣が進撃し、金森・織田等の諸隊
                      が前進すると、忠勝も先陣の井伊直政に負けじと梨木
                      川北方で島津隊と奮戦した。
                      戦後伊勢桑名10万石に転封された。

                                
本多忠勝像
                      
                               
愛知県岡崎市・岡崎公園内
                      岡崎城では徳川家康以外の三河武士では唯一忠勝
                      の像がある。
                      鹿角脇立兜を着け、名槍・蜻蛉切を携えた忠勝はとて
                      も凛々しい。

                                 

                      「花も実も兼ね備えた剛の者」・織田信長、「家康には
                      過ぎたもの」など、彼をよく知る武将たちは最大限の賛
                      辞を送っている。

                      本多忠勝誕生地碑は愛知県岡崎市西蔵前峠にある。

                                父・本多忠高墓碑
                      

                      
                                
愛知県安城市

                               本多忠高墓碑
                     1549年3月、今川・松平連合軍は、今川雪斎を将として
                     2万の大軍をもって、安祥城(城将織田信広)を攻撃しま
                     した。
                     松平方の主将本多忠高は城の防衛線を攻め破り、本丸
                     近くまで迫りましたが、ここで戦死しました。
                     この戦いを第4次安城合戦といいます。
                     この石碑は1797年本多忠顕(岡崎城主)が250回忌を営
                     み、忠高戦死の場所に建てたものです。

                                本多忠勝像
                      
                                三重県桑名市

                               本多忠勝
                      天文17年(1548)徳川家の重臣本多忠高の子として
                      三河(愛知県岡崎市)で生まれ、幼名を鍋之助のち
                      平八郎と称した。
                      永禄3年(1560)、13歳で大高の役に初陣以来、大小
                      五十余の緒戦に出陣し、ついに一度も負けることなく、
                      一ヵ所の傷をも負わなかった。
                      天正18年(1590)徳川家康公関東入国の時、忠勝公
                      は上総(千葉県)大多喜、十万石を与えられた。
                      慶長元年(1600)関ヶ原の合戦に従い、戦功により、
                      同6年伊勢桑名十万石に転封された。
                      桑名に入部した忠勝公は、木曽川や伊勢湾の水運を
                      利用して発展してきた港町を城を中心にした城下町
                      に造り変えるという大規模な都市再開発事業を断行
                      した。
                      これを「慶長の町割」という。桑名で計画的に町づくり
                      が行われた最初である。
                      港町、城下町、宿場町という三機能を合わせ持つ桑
                      名の基盤造りは忠勝公の第一の功績である。
                      忠勝公は「徳川四天王」の一人と称えられ、家康公の
                      信任極めて厚く、有能で剛勇の武将であった。
                      慶長14年(1609)致仕し、嗣子忠政に家督を譲り、同
                      15年、63歳で没した。
                      西岸院殿長誉良信大居士と号し、桑名浄土寺に葬ら
                      れている。

                                桑名城跡
                      
                                 三重県桑名市




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