平手政秀
信長の教育係は次席家老平手政秀であった。
政秀は茶湯や連歌などを嗜む、インテリで粋人
の老人である。しかし信長は、政秀の正反対の
行動をとっている。行儀もひどく、領民も「大う
つけ」と嘆いている。政秀は、信長を根気よく諭し
諌めてきたが、信秀の死後、織田家の前途を
悲観して自刃。(自刃の理由は諸説ある。)
政秀寺
名古屋市中区栄3
1553年信長の守役・平手政秀自殺。
(平手正秀:特に、信長と斎藤道三の娘との
結婚では調整役として活躍する)
平手政秀邸址
名古屋市北区平手町・志賀公園内
平手政秀墓碑
名古屋市千種区・平和公園
東雲寺
名古屋市西区上小田井・東雲寺
平手政秀の首塚があるとパンフにあるも見つける
ことは出来ませんでした。とても残念!
長福寺
稲沢市平和町(長福寺)
信長の為に諫死した平手政秀の子孫が
当寺を菩提寺とし、中興大檀那となった。
政秀の孫(子の説もある)の汎秀の墓碑
が平手政秀の石碑前に置かれている
汎秀の墓碑
稲沢市平和町(長福寺)
織田信長の出生地の勝幡城のすぐ近くに寺がある。
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